毛皮のマリーズ / ティン・パン・アレイ

ティン・パン・アレイ

ティン・パン・アレイ

 前作から、1年も経っていないのに、バンドの10年後を見たような気持ちになるアルバムだった。そして、わたしにとっては、毛皮のマリーズというバンドに対する、ひとつの明確な答えだった。ありがちなわだかまり。子供じみたちゃちな思い入れ。それらはここでうち捨てられるために、わたしの中に存在し続けたのだ。
 堂に入ってる、という言葉すら浮かんでこないほど、リッチさが堂に入ってる。堂に入りすぎて、それが、あまりにも自分の中の毛皮のマリーズとかけ離れていることに気づかない。こういうバンドってメジャー行くとすぐストリングス入れたがるよねー嫌いだわーとか言ってたのが、バンドサウンドが恋しいとか言ってたのが、強制的に、且つとても自然に、一足飛びの飛躍を受け入れさせる。彼らが、それだけの存在であったこと、前のクアトロで感じた確信が思い出された。志磨はクアトロのステージに立ちながら、すでにもうクアトロを飛び越えていた。このまま、ZeppだろうがHatchだろうが、何万人も入る野外フェスのメインステージだろうが、強烈な存在感とカリスマ性を同じ密度で振りまいて、若者の心を奪うだろう。そういうスケールが彼らにはあって、もう本当にわたしはそれに、やられてしまったのだ。その予感と高揚は、裏付けとか根拠とかまったく無くても、その奔流の中にいることだけで快感なのである。ステージで燦然と輝くロックンロールヒーロー。それを見つめる沢山の人たちの、涙を流さんばかりの表情。ティン・パン・アレイは、まさしくあのときの感動が、ひとつの作品として、根拠として改めて提示されたようなアルバムだった。
 前作は、曲単位としてはとても好きなものもあったが、全体としては、嫌いだった。向きたい方向は解るけど全部がうまくいってない感じ。今思うと、あれはサナギだったのだ。チョウの幼虫のようなインディーズ時代。つつくと臭い角を出し、ぎょろりとした目玉模様で周りを威嚇する。それはとても美しくて、そして当然のようにサナギになったが、薄い皮の下でいくら美しい羽が育っていようと、その状態で「マジすんげえ!俺チョウになったから!マジすごいから!」とわめかれても、中途半端な代物でしか無く、むしろそこに幼虫だった頃の面影とそれに対する懐かしさを、変態過程の歪さを感じるだけで、バカ言ってんじゃねえよ何粋がってんの、と思うだけで。しかしその本人の高揚は嘘ではなく、脱皮を遂げた今姿を現したのはチョウどころか鷲のような成体だった。唖然と見つめるばかりである。
 結構色んな好きなバンドに対して解散したらええねんと思いがちなわたしだが、彼らに関しては全く思わない。そのまま飛翔していくにしても、或いは美しく生えそろった羽根をすべて嘴で抜き落とすにしても。そういえば今日彼氏の家で、桑田佳祐のROCK'N'ROLL HEROを少し聴いたのだ。桑田のように、とまでは言わないけど、どうか彼らもあちら側に。日本を代表するようなロックバンドになってくれるといいなあと、過大な期待をかけてしまうのでした。

 とまあ色々書いたけど、ただ単純に、後半、愛のテーマや欲望の、間違いじゃなかった、間違ってなかった、というフレーズになんかすっごいあああーってなってしまい、仕事中にも思い出して涙こらえるという有様でして、いろいろ大変でございます。ここまで変わっても、ロックンロールヒーローは、やわらかいところを、gloomyのときと同じように、ぐっとついてくる、それが、とても嬉しい。