闇をひとつまみ

 いろいろすてきなところを巡った東京からの帰り道、自宅の最寄り駅について、ipod髭ちゃんのシャッフルを聴きながら歩く。1曲目がたまたま「夢でさよなら」で、なんとも言えない切ない気持ちになりながら歩いた。非現実的な旅の帰りに、過剰に日常的な音楽を聴きたくなるのは、なにかバランスを取ろうとしているのだろうか。新幹線のなかでは、普段聴かないイエモンや、ラジオの録音を聴いたりしているのに、千日前線に乗り換えるあたりから、髭ちゃんや毛皮や達郎や、そういった身体と心に染みつき倒した音楽が聴きたくなる。
 翌日、会社の最寄り駅から会社に向かっているとき、シャッフルで「闇をひとつまみ」がかかって、聴きながら歩いてたらほんとにちょっと泣きそうになってしまった。それから今日も何度も繰り返して聴いている。この曲は、YouTubeで公開された時から戦慄してたが、本当に神懸かって良い。はるか10年前、いや、わたしが髭ちゃんに出会ったのはもう少しあとかな。10年、いろんなことがあった気もするし、何もなかった気もする。あっという間だ。また10年先に、まだ生きていたとして、この曲を聴いて、"はるか10年前 昨日 そして今"という詞に何を思うかな。曲を作った人がどう思って書いたかは知らないが、わたしがこの曲から受ける「闇」のイメージは、闇があるから光があるみたいな陳腐な対比ではなく、宇宙みたいな虚無でもなく、もちろん悪でもなく、ありとあらゆるさまざまなものが混ざり合った深い深い色だ。なにもかもを許し、受け入れ、呑み込んだ、その先に生まれる深い色だ。いろんなことがあった気もするし、なかった気もする10年間を、なにもかもぶち込んで、許してもらえる、肯定してもらえるような、そんな気持ちになる。はるか10年前、とうたう曲ながら、昨日、今、明日、と視点は一気に未来へパンする。その時間の連なりの中にある全てを、この美しい闇色の中で、受容してもらえるような気がするのだ。きっと、次の10年も。
 多分髭ちゃんはそんなことを歌いたい訳ではないのだろうが、そういう風にきこえるっていうことは、それをわたしが望んでいるからなのだろう(音楽も美術も、わたしにとっては自己投影と快楽を得る手段である)。YouTubeで久しぶりに闇を〜のPV見てたら、関連動画に毛皮のマリーズの「愛のテーマ」が載ってて、解ってるなYouTube!!と思わずクリック。愛のテーマも、全肯定感というか、底抜けの明るさと愛の喜びに満ちあふれたそれこそユートピア的な名曲であるが、これも昔聴いては泣いてた。だいぶ序盤の、"間違ってなかった 歴史は全て間違いじゃなかった"あたりで泣いてた。ここまで来ると、そんな意識や記憶はないけどわたし何かめちゃくちゃ間違ったことしたんやろか…?みたいな気分になってくるよな。普段あまり過去の決定とか色んなことを後悔したり悩んだりしないのだけども、意識の表層に上がってこないだけで、色々思うところはあるのかもしれんね。