夢へのレクイエム

夢へのレクイエム
レクイエム・フォー・ドリーム [DVD]










映画「レクイエム・フォー・ドリーム」の原作。ネタバレするので嫌な方は注意。

夢や希望や目標といったものは、必ずしも人を良い方向に導くばかりとは限らない。場合によってはその夢とやらが、毒となって身体中を巡り、人生を崩してゆく。

登場人物は主に4人。高校を卒業したあと、定職にもつかずフラフラしているハリー、その恋人マリオン、ハリーの悪友タイロン。そして、ハリーの母親であるサラ。この4人がドラッグによって地獄の底に落ちていくという、簡単に言うとそういうストーリー。文体が特殊で、普通カギ括弧で表される会話文が地の文にそのまま入り込んでおり、最初かなり戸惑った。誰が何を喋ってるのか全く定かでないのである。地の文と、会話と、登場人物の独白が入り交じり、結構読みにくい。しかしこの文体が、後半薬物中毒になっていく描写において非常に効果的で、アアこいつらダメだ!クソだ!なんてどうしようもないんだ…!!とずるずると絶望に引き込まれていく。吐き気を催すのは、この特徴的な文体ゆえでもあるだろう。崩れていく自我、狂っていることに気付かないまま引き返せないところまで行ってしまう登場人物達。たたみかけるように続く長い長い文章が間断なく読み手の頭を犯し、終盤のスピード感ある破滅へと繋がっていく。

4人の登場人物は大きく2つのパートに分かれて進行していく。ハリーとマリオンは、アートスペース付きのカフェを開きたいね、みたいな甘ったるい夢を二人で語り合って、その資金作りにタイロンと共にドラッグの売買に手を染める。こちらはまあありがちなクズである。

が、一方、孤独な日々をテレビに依存しながら過ごす内、ダイエットピルで薬物中毒になるサラ。彼女は、誰にとっても他人ではないのではなかろうか。誰だって、ひとりぼっちにはなりうる。今そこに誰がいようとも。そうなったとき、その心の穴をわたしはいったい何で埋めようとするだろうか?
夫は死に、息子は帰ってこない。孤独を紛らわせるのはテレビ、チョコレート、コーヒー。テレビの中の世界はいつもハッピーエンド。お気に入りのチョコレートをひとつひとつ大事に口に運びながら、テレビに没頭する日々を送るサラが抱える思い。誰かに自分を認めてほしいという気持ち、賞賛されたいという気持ち、それらを叶えうる夢を、サラはテレビの中に見いだした。そしてその夢と、過去の美しく誇らしい思い出とが結びつき象徴的に表出したのが、息子の高校の入学式で着た赤いドレスであり、それを再び着るためのダイエットだった。少しフワフワした、どこにでもいそうなおばあさんの独白が、だんだんとおかしくなってゆく様は、最初からロクデナシだった彼女の息子のそれとは段違いに悲しい。ぼんやりとしたテレビへの憧れや昔を懐かしむ気持ちが、テレビに出られるかもという具体的な形を与えられ、夢という名の妄執へと化けてゆく。その過程―出演依頼の電話への無邪気な歓喜、そしてダイエットピルを手に入れてからの加速度付いた転がり落ち方が、地の文・会話・独白が区別なく敷き詰められた独特の文章でこれでもかと表される。苦しさに息が詰まる。濁った水が張られたバケツに頭を押し付けられているよう。濁りが段々澄んできたあとに見えるのは、覚醒剤まがいのダイエットピルによりすっかり人格を破壊された罪なき老女の姿だ。夢という毒がすっかりまわりきり、あとは幻覚と幻聴の世界から、地獄のような現実に放り込まれるだけ。

サラは、すっかり頭のおかしな老女となり、赤いドレスに金色の靴を履いて町をさまよう。挙げ句、テレビ局に出掛けてわたしをテレビに出せと迫り、そこでやっと医療機関に引き渡されるのだが、病院で彼女を待っていたのは、拘束と、ショック療法による激痛と、不要な投薬と、人権無視の心無い看護だった。薬の影響で口がきけない彼女は、しかし意識まで消えてしまった訳ではない。どんなに嫌でも苦しくても痛くても屈辱的でも、その気持ちを言葉にはできない。必死口ににしようとしても、看護師も医師もそれを待ってはくれない。口に食べ物を詰め込まれ、糞尿を垂れ流す屈辱、身を焼くような電気ショックの激痛に、どうして、どうして、と心中で繰り返しながらどうすることもできずただ、それを受けるしかない。
しかしここで、彼女を精神科にぶち込みサディスティックにショック療法を施す精神科医に、異を唱える内科医がいた。彼は搬送されてきたサラに温かい紅茶を勧め、支離滅裂な話を辛抱強く聞き、彼女の状態の原因を正しく読みとる。そして、彼女にはショック療法は不要と判断し、内科の病棟で治療受けさせる方向に進めようとするのだが、そこでハッピーエンドを期待してはいけない。精神科医は強引にサラを精神科に送り込み、内科医の抗議は上司の手により握りつぶされる。言い募る内科医に上司の医師は「わたしの仕事は患者を治療することではなく、組織を円滑に動かすことだ」と言い放ち、内科医は泣く。サラは、次はあの紅茶を入れてくれた先生が見てくれる…と希望を抱きながら、また電気ショックの部屋へと連れられて行く。その希望があったことは、サラにとって良かったのかもしれないが、読む方としては、その希望こそが、サラの地獄の日々をより強烈に浮かび上がらせる。すぐそこにあった救済、この物語で出てくる唯一と言っていい、善なる心の儚さ。内科医は、その後登場しない。
サラは結局、また別の施設だか病院だかに移され、そこで暮らすことになる。そこでの暮らしは病院よりかはマシなようだが、人間らしい扱いを受けているとはやはり言えず、ただ緩慢に死んでゆくだけなのだろう。そこを訪れた、かつてアパートでいっしょに日光浴を楽しんでいた仲のいい住人二人は、変わり果てたサラの姿に、抱き合い泣く。そのなんでもないシーンが、わたしは強烈に応えた。どこにいるかも解らないサラをわざわさ探し訪ね、泣いてくれる友人が彼女にはいたのだ。テレビになんて出なくても、彼女の周囲には彼女を大切に思う人がいた。ロクデナシの息子だってそうだ。サラはそれに気づかなかった。或いはその状況に満足しなかった。もっと、もっと賞賛されたい、認められたい。肥大化した夢は、現実を見る目を曇らせる。
「ハリーがいつかきっと可愛い娘さんを連れてきてわたしをおばあちゃんにしてくれる」と、正気だった頃、サラは心の中で繰り返す。夫の死により妻という居場所を失い、息子が出て行き母という居場所を失った彼女が求めた最後の希望だったのだろうし、彼女がこうあるべきと思う理想の家族像だったのだろう。愛する息子とその嫁、かわいい孫、そしておばあちゃんであるわたし。夢も理想も希望も、サラを救わなかった。ただ彼女の心と身体を蝕み喰い尽くしただけだった。

ハリー、マリオン、タイロンの方は、まあとても妥当な感じに薬物中毒になっていく。ドラッグを扱った作品にしては、使用時の描写は淡白だ。段々正気をなくしていく描写はとんでもなく濃密なのに。快楽にぶっ飛ぶ、その虜になる、というよりは、ちょっと朝ダルい、とか、景気づけに、とか、日常的な気晴らしとして彼らはクスリを使う。うまくいかない現実からの逃避として、クスリを使う。すっかり中毒になったところで、仕入れ元からのドラッグの供給が絶たれ、本格的な転落が始まる。薬物を入手するために、マリオンは、恋人であるハリーに促され、知り合いの精神科医に金を無心し(勿論対価は身体だ)、また金では売らないが女では売る、という売人の元へ連れて行かれる。二人の幸せな日々のために、という建て前はそこで音を立てて崩れた。
彼らも悲惨なのだが、最初からクズなので、サラほどの可哀想さはない。元々ハリーとタイロンは定職にもつかず、サラからお金を引き出しながらソフトドラッグに興じ、マリオンはマリオンで元々精神科医の愛人のようなことをしながらその見返りにアンフェタミンの処方箋を得ている。映画版では結構地味目な美女なので惑わされそうになるが、たいがいにビッチだ。元か現役か忘れたが、美大生っぽいのがまた何とも言えない。なのでこいつらは、元々ヤク中に限り無く近いクズなのである。だから、ハリーの腕が壊死して切断する羽目になろうが、タイロンが収監先で暴力ふるわれようが、マリオンがクスリの為にレズビアン乱交ショーに出演しようが、悲惨なのはしっかり悲惨なんだけども、まあ仕方ないんちゃう、て思ってしまう。ただ、彼らにしても、こんな風に「元々クズだから」と切り離して考えるのは、きっととても危ない。彼らが薬物売買に手を染めたとき、彼らはヤク中たちを笑っていた。俺たちはああはならない、ああなるほどバカではない、と。そして彼らは最後の最後まで、ラリった頭で同じように考えていた。わたしはああはならない。さて、ほんとうに?
わたしは、彼らのように、現実から逃げたことはないだろうか?手に入る距離にドラッグがあって、そこに手を出すと色んな辛いことが気にならなくなって、失って久しい楽しい気分を取り戻せるとしたら、わたしは手を触れずにいられただろうか?まあ、いられたから今があるといえばそうなのだけど、いられたかいられなかったかの間にはきっと、そんなに大きな差はないのじゃないか。


より有名な映画版では、「ドラッグがテーマであると語られがちだが、物語の本質としては、ドラッグの中毒ではなく夢への中毒を描いたもの」的な書き方がよくされてるが、わたしは以前映画見たときは衝撃的過ぎて、それがいまいちピンと来なかった。でも今回小説版読んでやっと得心が行った。夢や希望や理想というのは、きっと劇薬だ。使いようによっては、人や社会を成長させ、人生をより良くするのだろう。しかし、弱い人間にとって、夢に向かって正しく努力することはとても難しい。夢と現実に折り合いをつけることはとても難しい。夢や目標を正しく持ち、それに向かって前向きに努力できるというのは、その時点である種の勝利者であるとわたしは思う。万人がそうであるべきだという考えは危険だし、耳触りのよい言葉で無差別にそれを鼓舞するのは罪悪ではないか?わたしは夢は見ない。理想もない。少なくとも、それらを具体化しすぎないことは意識しているし、自分の足元と、その1・2歩先を見て生きたいと思っている。それは、まちがっているだろうか?そういう穏やかな生き方が、許される社会であってほしいと、わたしは思う。


夢と言えばで思い浮かぶ曲を最後に貼っておく。Sweet Dreams。Eurythmicsが原曲だがわたしはMarilyn Mansonのカバーの方がなじみがある。が、PV気色悪いのでユーリズミックス版を貼っておこう。1983年のヒット曲らしいが生まれてないので知らない。

昔見ていたMarilyn Mansonのファンサイトにあった訳、うろ覚えだけど、こんな感じだった。
甘い夢なんてこんなもの 反対はしない 世界中を旅して七つの海を渡ったけど みんな何かを探していた お前を利用したがってる奴らがいる お前に利用されたがっている奴らがいる お前を傷つけようとする奴らがいる お前に傷つけられたがっている奴らがいる

ついでにMarilyn Manson版のPVも。気持ち悪いけど、おどろおどろしくて好きです。なんだか絶望的な気分になるね!この時代のMarilynの体型が最高に気持ち悪くて良いと思う。皮膚の緩みと引っ掻き傷が、たまらなくグロテスク。