2015/4/22

 昨日書いてた古川日出男「ルート350」読み終えた。最後の2編をお風呂で読んでいて、ふうっと息をついて姿勢を変えたときに、はさまっていた文庫のしおりが抜け落ちて、風呂の湯の中に沈んでいった。それがあまりにまっすぐ、垂直に落ちていったので、なにかの神事のように美しく、思わず見とれてしまった。わたしが巫女なら、きっとそこからなにか予言でも託宣でも、できただろうに!
 「ルート350」では、「飲み物はいるかい」と「一九九一年、埋め立て地がお台場になる前」が好きでした。追い立てられて追い立てられて、最後に崖から浮遊する、その一瞬の虚脱がどの短編を読み終えたあと、残る。その浮遊する感覚の中に、断片的に浮かぶビジョンが、次々とまた別のビジョンや感覚を呼び起こす。理屈ではなく、理性でもない。解るか解らないかで言うとさっぱり解らない。やはりこの感覚は音楽に似ている。だから好きだ。いつか、この本をものすごく求める気分が、いつか、来るような気がしてならない。

 昨日はかなり久しぶりに少し走ってみた。達郎のサンデーソングブックを録音したファイル、40分くらいの、1本聴くくらいの時間で走るの丁度良いかもしれないな。泳ぐのは好きだけど、走るのは余り好きでない。疲れるし。それに、いろいろ考え事をしてしまう。だいたいが愚にも付かないことだ。泳いでいるときも色々考えるのは考えるが、端に泳ぎ着いて顔を水面に出した途端、それらは全て霧消してリセットされる。それがなにより気持ちいい。ただまぁサンソン聴いていくなら週1くらいで走っても良いかも。プールはいろいろと準備が面倒くさい。