2015/3/31(大滝さんのこと)

 大滝詠一さんが亡くなってから、一度も自主的に大滝さんの音楽を聴いてはなかったのだけど、今朝はどうしても、「おもい」が聴きたい気分で、悩んだすえ、とても久しぶりに大滝さんを聴いたのだった。
 大滝さんを好きな人はすごい沢山いて、そのマニアックさに圧倒されてわたしは好きだなんて正直大きな声で言えないのだけど、なんだかもう、本当に参ってしまう。なんてうっとりとした声で歌うのだろうか。声から音から香りが立つような。耳から入った音が、身体の中を満たして、内側から五感を刺激する。声が、音が、言葉が、さまざまなイメージを呼び起こすので、それをひとつひとつ確かめながら、なぞりながら、耳を傾ける。
 「おもい」や「それはぼくぢゃないよ」や「乱れ髪」のやわらかくあまやかな風景は、わたしにとってのユートピアである。松本隆の詞もすごく好きだ。あの音楽の中に見えるやわらかい光を、夢でもまぼろしでもいいから、いつか感じたい。

 以下は余談である。

 わたしが持っている大滝詠一さんのアルバムは、「大滝詠一」と「EACH TIME」のたった2枚だ。もう亡くなってしまった大滝さんは、随分前から自分でうたうことはしなくなっておられたのもあり、この世界に残された大滝さんの歌声は、わたしにとって石油とかそういうものに並ぶレベルに大切な限られた資源である。好きだというのになぜアルバム持ってないの、とばかにしたように言うひともあるが、わたしはわたしの一生を通して、大滝さんの音楽との出会いを楽しみ続けたい。だからおいそれとは買わないし、むやみやたらと聴いたりもしない。欲求が最大限に高まる瞬間にのみ、没入できる精神状態のときのみ、聴きたいと思う。それが「好き」でないならば、冒頭に書いたとおりわたしは大滝さんのことが好きだとは言わないし、他のどんな音楽も好きだとは言わない。音楽にしても、作家にしても、もうこのバンドで聴いたことが無い曲・読んでない本がない、という状態にわたしはすごい恐怖を覚えるのだが、他の人はそうでもないのだろうか。好きであればあるほど、全てを手に入れてはいけないような気がしてしまう。手に入れた先にはまた違う楽しみがきっとあるのだろうとは思うが(そうじゃなきゃやってられない)、わたしにはまだよく解らない。いつか解るだろうか。