ものをうごかす、港のこと

 バイトの搬出すると、物流ってすごいなーと思う。17時に集荷された幾つもの段ボールがが、翌日東京につく。籠台車につめこまれた備品類が、翌日九州まで運ばれてる。普段宅急便とかふつうに使ってるけど、そのものが、いろんな場所を経て、沢山の他の荷物と共に日本の道を移動していって、たったひとつ正確なあてさきに届けられるって、あたまのなかで辿ると、どきどきしてくる。その日本縦断する壮大さと、点と点の小ささ、というか個人的さ、みたいなのが、両方同時に成立してるのが何かもう、考えてると頭の許容量こえる。インターネットでファイルのやりとりをしたりしてると、ものを動かすことの価値みたいなのことを時々かんがえる。結局どんなに情報技術が発達しても、FAXでスルメを送れるようにはならない。どんな薄いものでも小さいものでも、ここから遠くの人に渡すには、電車に乗って長い時間揺られ、はいって渡さないといけないし、エクスパックに入れて郵便局にだすにしても、その郵便局からパッとものが消え失せ次の瞬間相手の最寄りの郵便局に現れるなんてことはない。すっごい当たり前のことだけど、そういう分野において、どんなにわたしたちにとって便利になろうが、ものが移動するというその土臭さというか原始的なかんじは、変わりようがないのだ、と思うと不思議な気持ちになるのである。
 ここ半年くらいだろうか、大阪港によく行っていた。今日でその仕事も終わったので残念なのだが、大阪港を眺めるのはとても楽しかった。大きな船が常に行き交っていて、向こう側には大きなクレーンがつらなり、真っ黒な山があって、船が横付けされていて、大きな倉庫や、よく解らないタンクや、そういうものたちが、動いている、生きている様を見ていると、押さえがたい昂揚を感じた。海運(なのか何なのかよく解らんが)というものに感じるよく解らないロマン、それも多分、普段インターネットだの新しいwebサービスだの地に足のつかない浮ついた世界に生きているからこそ、車やトラックよりも遙かに巨大な船の圧倒的な質量や力強さ、堅実さや泥臭さみたいなものを、欲する心があるからなのだと思う。なんと言えばいいのか解らないが、あの確かさ、は、切ないとも言えるような、不思議な思慕の情を掻き立てる。自分の日常において、港というものを意識することはまずない。その恩恵を感じることもまずない。しかし、社会の教科書のようなイメージのそれが、実際に存在してて想像以上に活発に動いていて、よく解らないけどきっとなにか自分の生活にも繋がっているのだろう。とても不思議な気持ちになる。
 水の中にあるであろう、貝がびっしりはりついた岩や、不気味な海草や、グロテスクな海洋生物の有機的で原始的なかんじ、その世界をかき分けながら進む、無機質で巨大な船。まるでバターを切るみたいに、船首がさっくりと海を切り裂き、線が引かれてるように決まった弧を描いて船体を海水が後ろに流れていく。海の色が途中で変わる日がある。手前は緑がかっているのに、向こうの方に境界線があって、その先は濃い青になる。風の強い日は一面に白波が立ってる。対岸の巨大なクレーンが船と陸の間で何かを運んでいる。大阪港っていいところだよ、ほんとうに。