8月読んだ本まとめ

さすがに前の話なので感想がかなり雑ですがご容赦下さい。

「空腹」が人を健康にする

「空腹」が人を健康にする

南雲先生の本もう1冊読んだことあるけど、そちらより内容が濃く普通におもしろかった。いろいろ、ん?と思う部分はあるにせよ、わたしは専門家ではないので何とも言えないが、おおむね、へえ〜そうなんですね、と思いながら読了。

東京下町殺人暮色 (光文社文庫)

東京下町殺人暮色 (光文社文庫)

昔持ってたけどいつの間にやら見かけなくなって、多分どっか古本屋で買い直したのだろう。宮部みゆきの書くティーン男子というのは、全体的に理想化がすごくてかなり非現実的なのだが、それがイイ!と思う場合と、違和感だけが先行してウーンと思ってしまう場合があって、この本はどちらかというと後者であり、こんな子どもおらんだろ…という思いが読んでる間中つきまといながらも、それでもそれなりにおもしろいので凄いと思う。

考え方として決して間違っていると感じる訳ではないし、そうなんだろうねと思う部分もあるのだけど、どうにもこうにも表現が受け付けないところが色々あり、なんとも気持ちの置き所が見つからない本であった。わたしが引っかかっているのは枝葉末節なのだろうが、なんだかどうにも、わたしは文系女子の割にこういう文脈の言語が受け入れられないのはなぜだ。

アウトローだった。

梅棹忠夫語る 日経プレミアシリーズ

梅棹忠夫語る 日経プレミアシリーズ

梅棹先生そんなによく知らないので、こういう人だったのか!と驚きながら楽しく読んだ。なんか妙に印象に残ってるのは、ローマ字でノート書いてたくだりである。全然関係ないけど、わたしはなぜか自分が書いてるメモとかノートを人に見られるのが物凄い嫌で、なにかメモとってるときに人に覗き込まれる(ような挙動をされる)と、別に変なこと書いていた訳でなくても、ばたんと閉じて隠したくなるくらいで、大人なのでそこまでしないが、さりげなく手で覆おうとするくらいはしてしまう。どうにか見られることの嫌悪感を軽減できないかと思い、速記文字を勉強しようかと真剣に考えたこともあるが、とりあえず今は、読めないような汚い字で書く、という、ほぼ素じゃないかそれ、という手段で乗り切り生きている。ローマ字で書けば良いのかな。正直ほんとオリジナルの文字とか発明したいくらい。あとその関係でか、他者が書いたメモとかノートをそのまま見せられても結構戸惑ってしまい、え?見て良いの?見せて大丈夫なの?と目が泳ぎがち。なんでなんだろうなあ。そんなイケナイこと書いてるつもりもないし、書いてきた記憶もないんだけど。

夢へのレクイエム

夢へのレクイエム

これはこちらにもう十二分に書きました。

欲望

 たとえば、という書き出しが好きだ。何を何にたとえるのか定かでないまま、今日はなぜだか頭の中でずっと、たとえば、という出だしがうずまいていた。たとえば、の後は続かない。思考は一旦霧散して、そのあとまたどろりとした水底から気泡がうかびあがるように、たとえば、が浮かんでは胡乱にはじける。多分なにかを伝えたかったり、なにかを表現したかったり、そういうあてどない、中身もないぼんやりとした衝動が、たとえば、につながっているのだ、と思ったので、ひさしぶりに日記を書く。

 どう考えてみても、仕事というのが生きがいになり得なくて、それは多分いまの会社がどうとかいう問題ではなく、自分の本質的な問題で、なんのために生きているのかというと、それは自分のやりたいことを心置きなくやるためで、仕事というのは、その「心置きなく」という部分にしか意味をなさない。就職できなくて苦しかったころ、なにが苦しかったというと、どんな楽しそうなことをしても「心置きなく」という部分がなかったことだ。それは、内面的なものでもあったし、外的圧力でもあった。音楽を聴く、ライブに行く、美術館に行く、本を読む、そういった自分の娯楽全般について、気晴らしになるかと何をしてみても、こんなことしてる場合じゃないのに、と自分が自分を苛む。また母も、そんなことしてる場合じゃないでしょと悪態をつき苛む。あの頃は、どんなに楽しげな会話をしても、出口はそれだった。ような気がする。こんなことをしている場合じゃない、じゃあなにをする場合なのか、それは就活だ。だけども、就活という行為に向かって前進するには、希望が必要だったのだ。エネルギーとなり得る充足が必要だったのだ。そのどちらも無かった。無理だ、もう駄目だ、という言葉だけがぐるぐると頭を占めて、やるべきことを出来ず、かといってやるべきでないことも出来ず。自分で気持ちを上向きにさせるために楽しみにすがっても、それだけ必死にすがっても、なにもかも砂を食むようだった。色彩も味もなかった。そんな人生を生きる意味はないとその時思ったし、今でもそう思う。楽しむべきことをそうやって楽しめないという状況が、わたしにとっては地獄に等しいということを、そのとき知った。結局のところ、わたしはストイックにはなりきれなくて、努力とか、成長とか、そんなことは「心置きなく」の否応なしの手段でしかなく、目的にはなり得ない。「たのしい」「うれしい」「きもちいい」というそれだけが、その充足が、多分わたしの生きる理由なのだ。

うつくしいものを見、手を動かしてなにかをつくり、感覚と感性を研ぎ澄まし、今いる外界のすべてを自分の内なる世界と相対させて、その反応すべてを感じ取って、そして誰かに存在を肯定されて、そうやって生きていきたいと思う。それらの幸福を日々思いながら。

 いま、わたしがやりたいこと。
 何かをつくる。終わりのない刺繍。麻布でスカートを作る。糸を染めて布を織る。FIQ辺りで見繕ったうつくしい布で玄関のごみ置き場を隠すのれんを作る。うつくしい模様を模写する。あてどなく絵を描く。来年の年賀状をデザインする。コーンフレークの入った硬いクッキーを焼く。小松菜とリンゴとオリーブオイルでケーキを焼く。玉葱とパプリカとベーコンでキッシュを焼く。ケークサレでもいい。果物を煮る。煮林檎がいいな。シナモンを効かせて。トーストに乗せて食べよう。羊にさわる。馬に乗る。外乗がしたい。牛の湿った鼻をさわる。澄んだ川で泳ぐ。岩をひっくり返して慌てて逃げ出す虫を見る。ペットボトルの罠を仕掛けて翌朝魚かかってるか見に行く。磯を歩く。延々と。気まぐれに泳ぐ。濃密な生命の気配を感じながら波に身を任せてぼんやりと漂う。海綿や、カメノテや、イソギンチャクや、そういった無脊椎動物の造形のうつくしさを堪能する。海岸を歩いてシーグラスやイソギンチャクの殻やカシパンの殻や貝殻を拾う。山を歩く。湿った土を踏む。文字を書く。もう始めてから1年以上になるレイ・ブラッドベリの「塵よりよみがえり」の文庫版と原書の書き写し。読んだ本で印象深かった部分を写真撮って残してあるのだけど、それを打ち込んで公開制限つきのblogにする。ソファに寝転がってゆったりとレコードを聴く。宇宙船レッド・ドワーフ号のDVDをいちから見る。字幕と吹き替え交互に。空堀商店街を散歩する。古本屋に行く。大阪城公園を日本三文オペラ的遺物を求め徘徊する。24時までやっているというサンサリテに夜も更けてからパン買いに散歩する。静岡行って芹沢硑介美術館の休憩スペースで心置きなくぼんやりする。駿府城の公園を散歩してレコード屋でなにか中古レコード見繕ってキルフェボンでタルト食べる。掛川花鳥園エミューに追いかけられながら餌やる。手を噛まれながらアヒルに餌やる。そんで資生堂アートハウスまで歩いて今度こそちゃんと展示見よう。ああとにかく静岡に行きたいな。あそこはとても落ち着く。あとどこ行きたいかな。高知の藁工ミュージアム。滋賀のMIHO MUSEUM。千葉の川村記念美術館。埼玉の河鍋暁斎美術館。東京の森美術館。野田のビッグビーンズ。淀川の湾処。大正区を自転車で走って千島の渡し船で対岸に渡る。渡らなくてもそのまま河口へ下ってもいい。あのあたりの景色すごく好きだ。写真に撮りたい。とても。川の写真をたくさん撮りたい。誰かと夜の公園で静かにビールを飲む。夜も遅ければ遅いほど良い。真夜中の真っ直ぐな道路の真ん中で、心細さとあてどない不安をもてあそぶ。点滅を繰り返す信号機に心をぞわぞわさせる。べろんべろんになるまで飲んで死んだようにねむる。不健全な眠り方をした翌朝の、重力が何倍にもなったような身体の重さを感じたい。

 そういった、なんてことのない欲望が、わたしを生かしている。

7月読んだ本まとめ

もう9月ですけど!!しかも出遅れすぎて読書メーターのまとめ使えないという。

くっすん大黒 (文春文庫)

くっすん大黒 (文春文庫)

町田康の名前は音楽の面でも文章の面でも勿論知ってるし、顔だけで言うとめちゃくちゃ好きだし、でも色々なんか思うところあって手を付けていなかったのだけど、しがらみ?から解き放たれ、いっちょ読んでみっか!と古本屋で購入。なにもかもが好みで、クソッ、クソッと床をどんどん叩きたくなる心地でした。わたしが中高生くらいのときに流行ってたんだっけか。中学生のときはラノベよく読んでて、スレイヤーズも勿論好きだった。というか全巻持ってた。さすがに手放して手元にはないし、再読してえとこの年になって思うこともなかったのだけども、どっかインターネットでちらりと話題を見て、猛烈にどんな話だったか読み返したくなりkindleで全巻セット購入という愚行に走る。たいそう懐かしかったのに加え、特に今読んでも、まぁ確かにラノベラノベ、しかもライトに大きく振れたラノベではあるのだけど、そんなに痛々しく感じないのは、いまだ根強い支持を集める名作だからなのか、わたしの頭が幼稚だからなのか。1日1冊以上さくさく読んでいける手軽さはジャンクで素晴らしかった。あとこういう時にkindleが放つ魔力と利便性は異常。どこかの新聞の書評で見て。美術品収集してた実業家の話なのだけど、どちらかというと実業家としての列伝としての側面の方が強く感じられ、美術品収集という観点ではそこまで詳しくなかったような記憶が。ただ「幻の」と銘打たれているだけあって、最後にコレクションが散逸していく様子が諸行無常感あってしみじみしてしまう。わたしは常々思うけど、ほんとこういう多大なる富を築いた実業家の皆々様には、どうか何らかの体系や美意識、社会貢献の観点に基づいて美術工芸品や現代美術作品を収集いただき、世に広く公開する場を設けて、その富を社会に多少なりとも還元していただきたい。そうして誕生して今も運営されている美術館とその元となった企業人および企業には、わたしは最大限の敬意を払いたい。わたしに払われても仕方ないとは思うが。
死にたくなったら電話して

死にたくなったら電話して

思い出すだけで疲れるのでこれについては割愛。

夢へのレクイエム

夢へのレクイエム
レクイエム・フォー・ドリーム [DVD]










映画「レクイエム・フォー・ドリーム」の原作。ネタバレするので嫌な方は注意。

夢や希望や目標といったものは、必ずしも人を良い方向に導くばかりとは限らない。場合によってはその夢とやらが、毒となって身体中を巡り、人生を崩してゆく。

登場人物は主に4人。高校を卒業したあと、定職にもつかずフラフラしているハリー、その恋人マリオン、ハリーの悪友タイロン。そして、ハリーの母親であるサラ。この4人がドラッグによって地獄の底に落ちていくという、簡単に言うとそういうストーリー。文体が特殊で、普通カギ括弧で表される会話文が地の文にそのまま入り込んでおり、最初かなり戸惑った。誰が何を喋ってるのか全く定かでないのである。地の文と、会話と、登場人物の独白が入り交じり、結構読みにくい。しかしこの文体が、後半薬物中毒になっていく描写において非常に効果的で、アアこいつらダメだ!クソだ!なんてどうしようもないんだ…!!とずるずると絶望に引き込まれていく。吐き気を催すのは、この特徴的な文体ゆえでもあるだろう。崩れていく自我、狂っていることに気付かないまま引き返せないところまで行ってしまう登場人物達。たたみかけるように続く長い長い文章が間断なく読み手の頭を犯し、終盤のスピード感ある破滅へと繋がっていく。

4人の登場人物は大きく2つのパートに分かれて進行していく。ハリーとマリオンは、アートスペース付きのカフェを開きたいね、みたいな甘ったるい夢を二人で語り合って、その資金作りにタイロンと共にドラッグの売買に手を染める。こちらはまあありがちなクズである。

が、一方、孤独な日々をテレビに依存しながら過ごす内、ダイエットピルで薬物中毒になるサラ。彼女は、誰にとっても他人ではないのではなかろうか。誰だって、ひとりぼっちにはなりうる。今そこに誰がいようとも。そうなったとき、その心の穴をわたしはいったい何で埋めようとするだろうか?
夫は死に、息子は帰ってこない。孤独を紛らわせるのはテレビ、チョコレート、コーヒー。テレビの中の世界はいつもハッピーエンド。お気に入りのチョコレートをひとつひとつ大事に口に運びながら、テレビに没頭する日々を送るサラが抱える思い。誰かに自分を認めてほしいという気持ち、賞賛されたいという気持ち、それらを叶えうる夢を、サラはテレビの中に見いだした。そしてその夢と、過去の美しく誇らしい思い出とが結びつき象徴的に表出したのが、息子の高校の入学式で着た赤いドレスであり、それを再び着るためのダイエットだった。少しフワフワした、どこにでもいそうなおばあさんの独白が、だんだんとおかしくなってゆく様は、最初からロクデナシだった彼女の息子のそれとは段違いに悲しい。ぼんやりとしたテレビへの憧れや昔を懐かしむ気持ちが、テレビに出られるかもという具体的な形を与えられ、夢という名の妄執へと化けてゆく。その過程―出演依頼の電話への無邪気な歓喜、そしてダイエットピルを手に入れてからの加速度付いた転がり落ち方が、地の文・会話・独白が区別なく敷き詰められた独特の文章でこれでもかと表される。苦しさに息が詰まる。濁った水が張られたバケツに頭を押し付けられているよう。濁りが段々澄んできたあとに見えるのは、覚醒剤まがいのダイエットピルによりすっかり人格を破壊された罪なき老女の姿だ。夢という毒がすっかりまわりきり、あとは幻覚と幻聴の世界から、地獄のような現実に放り込まれるだけ。

サラは、すっかり頭のおかしな老女となり、赤いドレスに金色の靴を履いて町をさまよう。挙げ句、テレビ局に出掛けてわたしをテレビに出せと迫り、そこでやっと医療機関に引き渡されるのだが、病院で彼女を待っていたのは、拘束と、ショック療法による激痛と、不要な投薬と、人権無視の心無い看護だった。薬の影響で口がきけない彼女は、しかし意識まで消えてしまった訳ではない。どんなに嫌でも苦しくても痛くても屈辱的でも、その気持ちを言葉にはできない。必死口ににしようとしても、看護師も医師もそれを待ってはくれない。口に食べ物を詰め込まれ、糞尿を垂れ流す屈辱、身を焼くような電気ショックの激痛に、どうして、どうして、と心中で繰り返しながらどうすることもできずただ、それを受けるしかない。
しかしここで、彼女を精神科にぶち込みサディスティックにショック療法を施す精神科医に、異を唱える内科医がいた。彼は搬送されてきたサラに温かい紅茶を勧め、支離滅裂な話を辛抱強く聞き、彼女の状態の原因を正しく読みとる。そして、彼女にはショック療法は不要と判断し、内科の病棟で治療受けさせる方向に進めようとするのだが、そこでハッピーエンドを期待してはいけない。精神科医は強引にサラを精神科に送り込み、内科医の抗議は上司の手により握りつぶされる。言い募る内科医に上司の医師は「わたしの仕事は患者を治療することではなく、組織を円滑に動かすことだ」と言い放ち、内科医は泣く。サラは、次はあの紅茶を入れてくれた先生が見てくれる…と希望を抱きながら、また電気ショックの部屋へと連れられて行く。その希望があったことは、サラにとって良かったのかもしれないが、読む方としては、その希望こそが、サラの地獄の日々をより強烈に浮かび上がらせる。すぐそこにあった救済、この物語で出てくる唯一と言っていい、善なる心の儚さ。内科医は、その後登場しない。
サラは結局、また別の施設だか病院だかに移され、そこで暮らすことになる。そこでの暮らしは病院よりかはマシなようだが、人間らしい扱いを受けているとはやはり言えず、ただ緩慢に死んでゆくだけなのだろう。そこを訪れた、かつてアパートでいっしょに日光浴を楽しんでいた仲のいい住人二人は、変わり果てたサラの姿に、抱き合い泣く。そのなんでもないシーンが、わたしは強烈に応えた。どこにいるかも解らないサラをわざわさ探し訪ね、泣いてくれる友人が彼女にはいたのだ。テレビになんて出なくても、彼女の周囲には彼女を大切に思う人がいた。ロクデナシの息子だってそうだ。サラはそれに気づかなかった。或いはその状況に満足しなかった。もっと、もっと賞賛されたい、認められたい。肥大化した夢は、現実を見る目を曇らせる。
「ハリーがいつかきっと可愛い娘さんを連れてきてわたしをおばあちゃんにしてくれる」と、正気だった頃、サラは心の中で繰り返す。夫の死により妻という居場所を失い、息子が出て行き母という居場所を失った彼女が求めた最後の希望だったのだろうし、彼女がこうあるべきと思う理想の家族像だったのだろう。愛する息子とその嫁、かわいい孫、そしておばあちゃんであるわたし。夢も理想も希望も、サラを救わなかった。ただ彼女の心と身体を蝕み喰い尽くしただけだった。

ハリー、マリオン、タイロンの方は、まあとても妥当な感じに薬物中毒になっていく。ドラッグを扱った作品にしては、使用時の描写は淡白だ。段々正気をなくしていく描写はとんでもなく濃密なのに。快楽にぶっ飛ぶ、その虜になる、というよりは、ちょっと朝ダルい、とか、景気づけに、とか、日常的な気晴らしとして彼らはクスリを使う。うまくいかない現実からの逃避として、クスリを使う。すっかり中毒になったところで、仕入れ元からのドラッグの供給が絶たれ、本格的な転落が始まる。薬物を入手するために、マリオンは、恋人であるハリーに促され、知り合いの精神科医に金を無心し(勿論対価は身体だ)、また金では売らないが女では売る、という売人の元へ連れて行かれる。二人の幸せな日々のために、という建て前はそこで音を立てて崩れた。
彼らも悲惨なのだが、最初からクズなので、サラほどの可哀想さはない。元々ハリーとタイロンは定職にもつかず、サラからお金を引き出しながらソフトドラッグに興じ、マリオンはマリオンで元々精神科医の愛人のようなことをしながらその見返りにアンフェタミンの処方箋を得ている。映画版では結構地味目な美女なので惑わされそうになるが、たいがいにビッチだ。元か現役か忘れたが、美大生っぽいのがまた何とも言えない。なのでこいつらは、元々ヤク中に限り無く近いクズなのである。だから、ハリーの腕が壊死して切断する羽目になろうが、タイロンが収監先で暴力ふるわれようが、マリオンがクスリの為にレズビアン乱交ショーに出演しようが、悲惨なのはしっかり悲惨なんだけども、まあ仕方ないんちゃう、て思ってしまう。ただ、彼らにしても、こんな風に「元々クズだから」と切り離して考えるのは、きっととても危ない。彼らが薬物売買に手を染めたとき、彼らはヤク中たちを笑っていた。俺たちはああはならない、ああなるほどバカではない、と。そして彼らは最後の最後まで、ラリった頭で同じように考えていた。わたしはああはならない。さて、ほんとうに?
わたしは、彼らのように、現実から逃げたことはないだろうか?手に入る距離にドラッグがあって、そこに手を出すと色んな辛いことが気にならなくなって、失って久しい楽しい気分を取り戻せるとしたら、わたしは手を触れずにいられただろうか?まあ、いられたから今があるといえばそうなのだけど、いられたかいられなかったかの間にはきっと、そんなに大きな差はないのじゃないか。


より有名な映画版では、「ドラッグがテーマであると語られがちだが、物語の本質としては、ドラッグの中毒ではなく夢への中毒を描いたもの」的な書き方がよくされてるが、わたしは以前映画見たときは衝撃的過ぎて、それがいまいちピンと来なかった。でも今回小説版読んでやっと得心が行った。夢や希望や理想というのは、きっと劇薬だ。使いようによっては、人や社会を成長させ、人生をより良くするのだろう。しかし、弱い人間にとって、夢に向かって正しく努力することはとても難しい。夢と現実に折り合いをつけることはとても難しい。夢や目標を正しく持ち、それに向かって前向きに努力できるというのは、その時点である種の勝利者であるとわたしは思う。万人がそうであるべきだという考えは危険だし、耳触りのよい言葉で無差別にそれを鼓舞するのは罪悪ではないか?わたしは夢は見ない。理想もない。少なくとも、それらを具体化しすぎないことは意識しているし、自分の足元と、その1・2歩先を見て生きたいと思っている。それは、まちがっているだろうか?そういう穏やかな生き方が、許される社会であってほしいと、わたしは思う。


夢と言えばで思い浮かぶ曲を最後に貼っておく。Sweet Dreams。Eurythmicsが原曲だがわたしはMarilyn Mansonのカバーの方がなじみがある。が、PV気色悪いのでユーリズミックス版を貼っておこう。1983年のヒット曲らしいが生まれてないので知らない。

昔見ていたMarilyn Mansonのファンサイトにあった訳、うろ覚えだけど、こんな感じだった。
甘い夢なんてこんなもの 反対はしない 世界中を旅して七つの海を渡ったけど みんな何かを探していた お前を利用したがってる奴らがいる お前に利用されたがっている奴らがいる お前を傷つけようとする奴らがいる お前に傷つけられたがっている奴らがいる

ついでにMarilyn Manson版のPVも。気持ち悪いけど、おどろおどろしくて好きです。なんだか絶望的な気分になるね!この時代のMarilynの体型が最高に気持ち悪くて良いと思う。皮膚の緩みと引っ掻き傷が、たまらなくグロテスク。

6月に読んだ本まとめ

ちょっと今更だけど。

2015年6月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:2764ページ
ナイス数:0ナイス


よくわかるアサーション 自分の気持ちの伝え方 (セレクトBOOKS)よくわかるアサーション 自分の気持ちの伝え方 (セレクトBOOKS)
読了日:6月30日 著者:
アサーションという言葉には最後までなじめなかったが(カタカナ語が苦手なだけである)、興味深い内容だった。しかしこういう本を読むに付け思うのは、わたしってなんてストレスレスに暢気に生きてるんだろうか…ということである。

ユートピアと性 - オナイダ・コミュニティの複合婚実験 (中公文庫)ユートピアと性 - オナイダ・コミュニティの複合婚実験 (中公文庫)
読了日:6月28日 著者:倉塚平
かなり手こずったが、とてもおもしろかった。セックスと女性の社会的立場と信仰と繁殖について色々考えさせられた。オナイダ・コミュティは確かにとっても変だし、崩壊すべくして崩壊したのだろうが、わたしはこっそりと、あのままコミュティが続いたとしても、それはそれでひとつの幸福な世界たりえたのではないかと思ってしまう。うまくやりさえすれば。まぁそのうまくやるっつうのが難しいのだろうが。避妊具がない時代に、男性の意思力による避妊が徹底されたために、女性は出産の苦痛から解放された、という部分は、出産という行為をひたすらの神聖視する一部の言説に対してなんとも言えない気分になるわたしにとって、出産をハッキリ苦痛と言って良い世界観がとても新鮮だった(しかも男性である教祖が主張するのである)。まあでも全体的にはやっぱりトンデモだし、ぶっ飛んでるし、理解不能なんだけど。でもとてもおもしろかった。

弥次喜多 in DEEP 廉価版 (1) (ビームコミックス)弥次喜多 in DEEP 廉価版 (1) (ビームコミックス)
読了日:6月27日 著者:しりあがり寿
空堀商店街の古本屋で購入。映画むかし見てとっても好きだったのを思い出して。古本屋には何巻までか揃ってたんだけど、しりあがり寿自体買ったことなかったし、一気に全部買うのはね〜と思って1巻だけにしたのだが、一読してすぐ残り買いに行きたくなるくらい素晴らしかった。ぶっ飛んでるだけでなく、なんて切ない!!!サイケでキュンキュンするとか最高じゃないか。それから何度も、続き買いに行こうと思ってるのだがまだ行けてない。さすがにもう残ってないかな。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)西の魔女が死んだ (新潮文庫)
読了日:6月27日 著者:梨木香歩
オナイダコミュニティの本に疲れ果ててるときに、なにか心洗われる本を…!と思い何度目かの再読。なんて美しい世界。ラストはもうお約束のごとく涙がボロボロ出る。

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)今夜、すベてのバーで (講談社文庫)
読了日:6月23日 著者:中島らも
中島らも。いろいろ思うところがあって、敢えて避けていた作家のひとりであった。えいっと思い切って読んでみたら、なにもかもが好みすぎて震えた。わたしの中のある部分が、猛烈に惹かれている、のをまた別の部分のわたしが、必死に止めている。


アウトサイダー・アート入門 (幻冬舎新書)アウトサイダー・アート入門 (幻冬舎新書)
読了日:6月20日 著者:椹木野衣
図書館本。おもしろすぎたので近いうちに買う。

大和屋物語――大阪ミナミの花街民俗史大和屋物語――大阪ミナミの花街民俗史
読了日:6月18日 著者:神崎宣武
感想ははてダに書いたのであとでリンクはっておく。

10月はたそがれの国 (創元SF文庫)10月はたそがれの国 (創元SF文庫)
読了日:6月16日 著者:レイ・ブラッドベリ
SFというよりは、ゾクゾクする幻想的な短編集。大好きで再読中だったのだが、如何せんボリュームあるのでなかなか読み切れてなかった。邦題すばらしいよなこれ。10月はたそがれの国

察しない男 説明しない女 男に通じる話し方 女に伝わる話し方察しない男 説明しない女 男に通じる話し方 女に伝わる話し方
読了日:6月5日 著者:五百田達成
なるほどな〜て思うところ沢山の、おもしろい内容。男女差というのは方便で、性差というより、大きく二つのタイプに分けて、その2タイプがお互いに歩み寄って良好な関係を築くには、みたいな本。


その「不調」、あなたの好きな食べ物が原因だった? 遅発型フードアレルギーその「不調」、あなたの好きな食べ物が原因だった? 遅発型フードアレルギー
読了日:6月2日 著者:澤登雅一
漠然とした色々な不調が、遅発型食物アレルギーというものに原因があるかもよ、という本で、その検査と治療?のための指導を自由診療で行ってるお医者さんのまあちょっと宣伝ぽい本。遅発型食物アレルギーについては全然知らなかったので、身体のメカニズムって色々あるんだなあと思うと同時に、わりかし信じる力が試されそうな治療やな…とも思ったり。小児アレルギー学会かなにかは、このIgG抗体検査は推奨しない声明を出してたので、なんか賛否両論あるのかもしれない。


読書メーター

足りないもの、足りたもの

 28年暮らした実家を出て、ひとりぐらしを始めた。家から持ち出せるものは持ち出して、また人からいろいろ頂いたりして、それでも買わないといけないものは沢山あって、でもお金はぜんぜん無くて、なので、無い状態から始めて、必要だと感じたものを順次用意していくことにした。そんな中、意外になくても大丈夫だなあと思ったもの、無くてもよくない?と思ったけどやっぱり無いと困ったものを記録しておく。

  • 炊飯器

 もともと、無くても大丈夫な気がするなァと思っていたけど、無くていけてる。最初片手鍋で炊いてみて、それでも充分簡単だったのだが、片手鍋は調理にも使うので、それ以降は頂き物の土鍋が大活躍。帰宅してすぐ米洗って水につけといて、掃除したり他の調理したりしてる間に30分くらいすぐ経つから、土鍋に移して水入れて蓋して火に掛け、沸騰した気配がしたら弱火で10分。あとはガスからおろして(おくところがないから床にコルクの鍋敷き置いてそこに移動させてる…)蒸らしたらとてもおいしいご飯が炊ける。炊飯器と手間ってそんなに変わらん。土鍋洗うことくらい?
米用の計量カップもほしいと思ってたけど、IKEAで買ったグラスすり切り1杯で、わたしのご飯ちょうど2膳分になる。水も同量で丁度良い。今の季節まだ残った1膳分をラップして放置してても1日くらい保つので、ごはん炊くのは2日に1度。ほどよいペース。

  • 電子レンジ

 夕ご飯のプランさえ考えておいたら、冷凍肉はその日の朝に冷蔵庫に移しておけばいいし、野菜は茹でればいいし、冷食の類いは食べないし、今のところ必要と思う場面には出くわしていない。しかし前述の残ったごはん1膳分を室温放置ができない季節になると、冷凍することになると思うので、冷凍ご飯の解凍には必要な気もする。しかしまぁいちど蒸して解凍という手を試してからだな。

  • トースター

 食パン焼きたいなぁと思ってたけどガスレンジについてる魚焼きグリルで充分事足りる。うちのは片面焼きなので、途中ひっくり返さないといけないし、油断するとすぐ焦げるけど、まぁ油断さえしなけりゃ問題ないし、朝は慌ただしいのでそんなに油断しない。

  • オーブン

 実家のガスオーブン結構使ってたのだった。無くても困らないがあればより豊かな食生活が送れるなぁとはいまだ思う。焼き菓子類はまぁ諦めるとして、ホイル焼きやピザはグリルで大丈夫かな。グラタンはムリかな。菓子類は、プリンやゼリーや白玉なら作れるぞ、と思ったのでとりあえずそのうちプリン作りたい。

  • サラダ油

 べつにあってもいいんだけどおくところ狭いからまだ買ってない。個人的にはオリーブオイルの方が汎用性高いので最初にオリーブオイル買ったら大体それで事足りてしまった。焼くのにもサラダにもマリネにも使えるし。あと祖母がごま油くれたのでその2本で油は足りてる。

  • 醤油

 しばらく無い状態で過ごしてみたが、段々「醤油味…醤油味…!」と魂の底から醤油を求める声がしたので買った。落ち着いた。

 ひとりぐらしを始めて改めて自覚したのだが、わたし酸っぱい味好きだわ。真っ先に買った調味料は家でも使ってた岩塩と、バルサミコ酢であった。その後使わないと母がくれたワインビネガーを実家から貰ってきて、ポッカのレモン買ってだいぶ落ち着いた。しかし普通の酢がないので早急に買いたい。

  • 本棚

 書籍類はほぼ実家においてるので今のところ小さめの段ボールに立てて入れてそれを本棚と言い張ってる。

 最初のあいだ、ガスレンジが入ってた段ボールにカッターマット敷いて上から布かけて机と言い張ってたけど、これはどうにもやはりしんどかった。実家から無印の折りたたみ机(くそ重い)えっちらおっちら手動で運んで今は快適。机は要る。

  • 体重計

 ないとなんか妙に不安である。実家にいたときも毎日測ってたわけじゃなかったのに…。とりあえず実家にいたときから自分用に買おうと思ってたWellness Link対応の体重計をそのうち買う。

  • 姿見

 そうかこれってやっぱり必要なのか…と思った。服も全て持ってきている訳ではないので、限られた服を組み合わせて着ないといけなくて、そうなるとまぁ想像でこんな感じやろなとは思ってもそれを確認できないのは大層不安である。あったらあったで叩き割りたくなることもあるが、なかなかオサラバはできないようだ。あとバストイレ一体型の洗面所で化粧までしようと思うと洗面台の周りがゴジャゴジャしすぎるので、姿見買ったら化粧は外でしたい。今のところ、後ろにハンガーラック付いてるIKEAの姿見か、鏡部分がパカッと開いて中にアクセサリーや小物収納できるニトリの姿見かで迷っている。

  • 湯沸かし

 片手鍋でなんとか。2口ガスコンロ置ける部屋なので、その辺りは助かっている。


 わたしは特に座右の銘とか良い言葉とかを大事にするタイプではないのだけど、唯一とても好きな、というか、生き方の指針にしたいと思っているのが、ウィリアム・モリスの「役に立たないもの、美しいとおもわないものを家においてはならない。」という言葉。その通りに生きることはとても難しいけど(そもそも彼の言うbeautifulのレベルはとんでもなく高い)、なにかを買おうとするときいつも頭をよぎる。なにか必要だと思うものがあって、でもあまりお金がなかったり、自分の美意識にそぐうものが店で見つからないのならば、安くて美しくないもので妥協するよりは、それが無い状況を我慢する或いは無くても大丈夫なように工夫する、方を選びたいと思っている(もちろん常に選べている訳ではないし選べていないことの方が多い)。そしてその美しいものが見つかるまで、わたしはわくわくしながら探し続ける。美しいという言葉は、単純に見た目だけの問題ではなくて、人であれものであれ、機能や在り方や思いも指すとわたしは思っているが(勿論見た目もだ)、そういう意味で、自分が美しいと思うものが今のこのわたしの生活の中にあればと思う。そして、ないものはないで良い。

大阪ミナミの花街民俗史

 「大和屋物語−大阪ミナミの花街民俗史」読了。2003年まで営業していたミナミの老舗料理茶屋の歴史をまとめた本で、筆者が民俗学者であるがためか、民俗学的考察が随所随所にはさまれ大変おもしろかった。茶屋というものが、ただの遊興の場というわけではなく、大阪の文化に深く深く食い込んだ、重要なファクターであったことがとてもよくわかった。大和屋は、芸妓を抱えた料理茶屋で、料理も自分の店で板前を抱えて作っていたそうだ。口絵に載っている季節の料理の美しいこと。芸妓の養成所を作ったり、様々な行事を積極的に創設したりと、店だけでなくミナミ全体の盛り上げに尽力していたよう。本の中で描かれている茶屋文化は、本当に粋で、大店の主人たちが、旦那として、その経済的豊かさにふさわしい振る舞い、文化というものへの責任を、大層自覚的に背負っていたのだということを非常に尊く感じる。そういう精神こそが、舞踊や歌舞伎や文楽といった上方の文化、それによって誰かの腹がふくれるわけでもなく家が建つわけでもなく誰かの病気が治るわけでもなく何かが生産されるわけでもない、ただ人と人とを繋ぎ、人の精神を磨き、人の心を豊かにする、それだけの「文化」を、守り育んできたのだ。文化は、税金でのみ守られるものではないと思うし、かといって一般庶民の財布でどうこうできるものでもないし(また、できる規模のものにするべきだとも思わない)、ただそれを守り育てる価値を知る富めるものが、どうか居続けて欲しいと願うばかりだ。
わたしが生まれ育った堀江も、そのお隣の新町も、かつては花街として栄え、大和屋があった南地と北新地と、堀江と新町が大阪の主要な花街だった。母が小さい頃まだ新町あたりはそういう街だったと聞くが、当時そこにいたのが芸妓だったのか娼妓だったのかわたしはよく知らないし、茶屋とかそういうお店の名前の区別も色々ありすぎてよく解らんし、春を売るのか芸を売るのかって結構大きな違いの割に誰も明確に説明してくれないなぁと思っていたのだけど、読んでいると、大阪の花街は特に様々な形態の店があり、大阪の土地柄による性分か、実際いろいろ曖昧だったようだと書かれていて、ああそうなのかァと少しすっきりした(江戸時代とかはまたちゃうやろけどな)。西区、というか堀江の歴史とか一度ちゃんと勉強したい。多分とてもおもしろい。時々そういう講座の案内を見かけることもあるが、大抵平日真っ昼間という勤め人が来ることを全く想定してない時間設定なので、困ってしまう。