京都国立博物館の平成知新館とわたしの話

 京都国立博物館の平成知新館、2014年9月13日openだったので15日(月・祝)に行ってきました。9時半開館で、8時50分くらいに七条着いてしまって、少しマックで時間潰してから9時20分頃に南門着。早めに開館したみたいで、そのままチケット買って入館列に。平成知新館の前から南門に向かって列が伸びて、手前で明治古都館の方に折れるような列作り。ほとんど待たずそのまま進んで入れました。
 平成知新館は、以前あった平常展示館を2009年に閉めて建て替えた新しい平常展示館で、谷口吉生さんという建築家の作だそうです。わたしは建築ぜんぜん詳しくないのだけど、東京国立博物館法隆寺館はとてもとても大好きで、自分が今まで行ったことのある美術館の中では一番目か二番目くらい(川村記念美術館と首位を争っている)に大好きで、初めて行ったときから毎度、ひたすらウットリと徘徊するのが常でした。また、静岡県掛川にある資生堂アートハウスも、掛川花鳥園から徒歩で行ったため疲労困憊で心身共にあんまり余裕ない状態でしたが、ただごとじゃない場所になんか来てしまっている…(だが疲れすぎてよく解らない…)という気分になったものでした。それらの建築をなされた方が、新しい平常展示館を作られると言うことで、大変うれしく、楽しみに思っていたのでした。
遠目に見ると、平成知新館はまっすぐに、京博の空を水平にきりさいていて、青く、清新でとても美しい建物でした。手前にたたえられたまったいらな水が、またきらきらしていて美しくて、これが京博なのかと思うとなんだか不思議な感じでした。特別展示をする明治古都館は、とても古めかしい、威厳のあるかんじの建物なので。少し1階が混雑していたようなので、ロッカーに荷物を預けて3階から見ました。3階は考古遺物と陶芸。音楽はやかましくて早いのが好き、美術はうつくしいものが好き、という幼稚な感性を持ったわたしは、個人的に、京博の平常展示の見ものと言えば、仏像と着物と刀剣だったので、どちらもさほど興味は無い分野ではあったのだけど、陶芸の良さには本当に驚きました。印象でしかないですが、展示点数はかなり減ったような気がします、だけどその分、というか最初だから更にキャッチーなものをかなり厳選しているのかもしれないけれど、色鮮やかで見応えのあるものばかりで、パッと見て通り過ぎる予定が結構真剣に見入ってしまった。鯨皮手建水という野々村仁清の建水があったのだけど、「鯨皮」という表現はすごくイカしている。たしかにこれは、鯨の黒い皮がついた白い脂肪の部位である。おいしいよね〜。考古も、シンプルな展示で良かったです。時代の流れにそって最小限、みたいな。ボリューム減ったのは残念な部分もあるけど、この年になるとあまり量見てもしんどいので、このくらいでいいのかもしれない。
 館内はうすぐらく、ひそやかな雰囲気。ほんとに、法隆寺館みたい。反射の少ないガラスを使っているということですが、思っていた以上に反射しなくてこれがすごく良かった。展覧会で、硝子の反射というのは結構ストレスなのです。あまりに反射しないから、ガラスの位置が解らず手で触れてしまいそうになるほど。あれはウッカリ触っちゃった人の指紋拭き取るの手間かかりそうですね。
 2階は絵画。けっこうシブめのが多かったけど、来迎図が数点あって素晴らしかった。わたし仏像は好きだけど仏画はそうでもなくて(嫌いじゃないけど)、でもその中で来迎図だけはとても好きです。信じたくなる。人が死ぬときに、あんな美しいものが来てくれるなら、それを信じれたら、なにか違った思いを持って生きていけそうな気がします。来迎という事象(事象?)を考えて、ああいう図柄を作った人は、すごいと思う。自分が死ぬときに、あんな幻を見れたらどれだけ素敵だろうか。自分の大切な人が死んだときに、それがどんな最期であれ、いろいろ苦しいこともあったけど阿弥陀如来が家来ひきつれて雲に乗ってとんできてくれたんだろうと信じられると、多少なりとも慰められるのでは。仏像のコーナーにも、死者のを手に持ってる蓮台に乗せていきます、という像(なんだそれは)があって、その手元の小さな蓮台にちょこんと乗せられる死者(自分が大切に思っている、これから自分より先に死ぬであろう人たち)を想像して、尊くて泣けてきた。わたしがものすごいお金持ちだったら、絶対お抱えの絵師に来迎図描かせると思います。
 で、1階の仏像。2階から吹き抜けになってる部分があって、2階見てるときにふと目をやると、下に金色の大日如来座像が。ウワッと思ってもう心底しびれました。なんだこのシチュエーション。金剛寺大日如来座像を中心に、ズラッと並んだ仏像たちは、割と一貫性がないんだけども、一体一体のまとう尋常じゃない空気が不思議と調和している、なんか異様な空間でした。そもそも、仏像を上から見下ろす状況ってあんまりないと思うんですけど、かなり酔える。素晴らしいです。まじここおすすめ。忘れずに一度は見下ろしてみて頂きたいです。で、ドキドキしながら1階に降りたのですが、もうほんとやっぱりすっごい良かった。学生の頃は仏像って、時代がどうだとか衣紋がどうだとか印がどうだとかこうだとかなんか面倒くさいこといろいろ考えながら見ていた(というかそういうことをしに大学に行った)けど、卒業してスッパリそういうのやめて、自由になれて本当に良かったと思う。向いてなかったな〜。ははは。もう今は、ひたすらその前で、息を吸ったり吐いたりしながら見ている、ただ見ているという状況の幸福さにふるえる。どうしていちいち泣けてくるのか、何度自問自答してもまだよく解らないが、それらが時を超えてきたこと、それを支えた人々の祈りって、なんて凄いんだろうと思って、糞虫みたいなわたしみたいなんもいるけど、人間ってすごいなと思います。湛慶の千手観音見れたのもうれしい。あの方の仏像は本当にシュッとしてて美しいです。大好き。
 1階はあと金工とか漆工とか染織とか。書跡とか。わりと仏像に魂とられてあんまり覚えてないけど、染織はあいかわらず良かった。以前年賀状の図案に使った束熨斗柄の振り袖と再会できたのがうれしい。刀剣の展示ってないのかな。好きなんだけど。
 人は多かったけど見れないほどじゃないかな。帰り(11時半くらい)は続々七条の方から人あがってきてたので、やっぱり昼頃になるともっと混むのかも。朝イチは朝イチで並ぶけど、順路気にしないなら人が少ないところからどんどん見ていけば良いかと思います。

 京博の前の平常展示館が閉館して、改築が始まって、わたしは2010年の京博であったとある大きな特別展示を最後に、学生時代から続けていた展覧会でのバイトを辞めました。あの頃、新しい平常展示館が2014年開館だと言われても、果てしなすぎる未来に見えて、ものすごい辛い気持ちになっていたのを凄くよく覚えている。あの頃のわたしにとって未来の日付は猛毒でした。大学4回でも就職決まらなくて、留年してもう一度就活してもまだ決まらなくて、結局決まらないまま卒業してバイト続けてたときの絶望的なきもちは、今でも折に触れ思い出し、けっこう苦しい。あのとき、わたしは平常展示館が新しくオープンするのをどういう状況で迎えるのだろうかと、ポスターやのぼりを見る度に考えていた。明るい未来とかなくて、家族にも追い詰められ、あの卒業してからの4月5月は死ぬことばかり考えていて、もう開館する頃には生きてないかもしれないと真剣に思っていた。だけど今、こうやって健やかに、新しい平常展示館のオープンを迎えられて、わたしは本当にうれしい。仕事について、毎月ちゃんと収入があって、社会人として生きていることを、あの時のわたしに叫びたい。あとちょっとがんばれば、お前を拾ってくれる人がいるからと。
 わたしにとってこのオープンは、ひどく象徴的なことだったのです。13日の初日は仕事で行けなかったけど、できるものなら初日の9時半に門をくぐりたかった。生きてるよ!と京博に報告したい気持ちでした。
 すごくうれしい。死ななくて良かったと思いました。