音楽と言葉、英語と日本語の音楽

 英語が分からないと洋楽おもしろくない、という感覚は味わったことがない。それで日本語盤についてくる対訳見ればいい、というのも、解らないなーと思って生きてる。歌詞の意味を100%理解するなんて日本語詞ですら不可能だし、ましてや言語の違う歌詞なんて、解る筈がなかろう。単語には色んな意味や使い方があって、言葉が生きている以上、時代や場所によってすら様々に意味が異なる。その膨大な意味、解釈の中で、顔も知らない誰かが訳した歌詞、それがどのように厳密な調査、解釈がなされているのかなど知るよしもないそれ、それのみ満足し、納得するのは、昔から好きではなかった。知らない誰かの詞(その誰かというのは多くの場合アーティストとはなんら関係のない誰かだ)で、中途半端に自分のアーティストや曲へのイメージを固定してしまうくらいなら最初からなんも解らん方がいい、と思って、洋楽聴くときに対訳は見なくなった。基本的に輸入盤しか買わないけど、中古とかで日本語盤を買ったときは、対訳が載ってるブックレット捨てることもある。
 そもそも、音楽において言葉ってそんなに大切なもんかなーて思う。音楽を構成する色々な要素のひとつでしかなくはないか。言葉が分からないイコール曲が解らないのではなく、言葉を越えた感じ方ができるってことじゃない、て考えたりする。それは英語を解する人には決して出来ない受け取り方だ。日本人であるわたしは日本語の歌を聴くと、どうしても歌詞のイメージを越えることは出来ない。そこから開放された音楽の楽しみ方とは言えはしないだろうか。
 別にわたしは歌詞が嫌いだとか言う訳ではなく、日本語ロックと呼ばれる分野もとても愛している。美しい日本語を包み込んだ音楽はとても好きだ。日本語は、意味が解るというだけではなく、文化や環境、感性を共有する者にしか解らない多くのものを伝えてくれる。しかし、幾ら英単語の意味を調べても、幾ら対訳を読んでも、日本語詞を多くの側面から解するのとは逆に、決して正しい共感、正しい理解が出来る筈のない海外の音楽、KILLSやMarilyn Mansonやその他沢山の音楽も、同様に愛している。そこに矛盾は感じない。音楽から受け取るものは、曖昧なまま自分の中に入ってくる。とても曖昧に。それはきっと、わたしの内面を反映しながら、なんらかのイメージとして残る。日本語の音楽が、作り手が提示する情景を読み取るものだとしたら、わたしにとって英語の音楽は、受け手によって能動的にイメージを作り上げる音楽だ。
 日本人でも英語詞でしか歌わないバンドもいる。わたしにとってその筆頭は、Great Adventureだ。日本人なら日本語の歌を歌え、という声をよく聞いた。特にグレアドは、音楽性といい徹底した英語詞といい、敢えて日本人がする必要がない、だから売れない、などという辛辣な意見も聞いた。だがわたしは、日本人が英語詞を歌うということに某かの意味は存在すると思っている。彼らがどういう意図で日本語詞を書かなかったのか、本当のところは解らない。しかし、わたしはそこに、音楽と意味を一旦切り離すという意志を感じた。意味というコーティングを剥がした、生身の音の快楽を感じた。そして日本人が敢えてそういう意志で音楽をすることが、彼らの存在意義であり、その形で評価される・認められる、もっと言えば、売れることが、必要だったのではないかと、非常に個人的にだが、考えている。むしろ、売れるところまでが、存在意義だったのかもしれない。しかし残念ながら彼らは一定以上の評価を受けることなく、活動をやめてしまった。わたしはまだ信じている。彼らは早すぎただけなのだと。
 英語詞を、少しでも理解したいという気持ちがあることは解る。ただ単に、わたしが、100出来ないなら0でいい、というような気持ちの持ち主なので、完璧でない理解を放棄しているというだけの話であったりもする。しかしわたしは、英語詞を理解しながら聴く、という形だけが正しい洋楽の聴き方ではないんじゃないか、ということが言いたかった。誰もがそこへ向かう必要はないんじゃないかってことが言いたかった。わたしは、圧倒的に邦楽の方が聴く分量多いけど、英語の歌を、なんとなく歌詞の単語眺めたり眺めなかったりしながら、ぼんやり聴いて内省するのも好きだ。そういう話がしたくて、この文章を書いた。音楽は常に自由であってほしい。作り手も聴き手も。