祖母のこと、その死と新型コロナ

父方の祖母が死んだ。97歳だった。ここ数年は寝たきりで父が同居し叔母とともに介護していた。最後に会ったのは正月だった。寝付いてからは認知機能も衰え、わたしのことも、孫だと解って喜んでいるようなときもあれば、気のないそぶりでフイとされるときもあった。ベッドに横たわりテレビをぼんやり眺め、起きたり寝たりして一日が過ぎているようだった。祖母は聴覚障害者だ。音のない世界でそのように生きていることは、わたしの想像のなかでは心臓がキュッとなるような状態だが、本人がどうであったかは本人にしか解らない。一昨年産まれたわたしの子に触れさせると、ほほえむような素振りを見せたり、なにか話そうとすることがあり、それがとてもとてもうれしかった。

大阪府南部に住んでいた祖母は阪神大震災の年の春、当時わたしが住んでいた大阪市のマンションに引っ越してきた。日曜日の朝起きると、家で購読していた子ども新聞を持って2階下の祖母の部屋に行く。すると、フレンチトーストや、フルーツサンドや、スクランブルエッグとソーセージがついたトーストや、そういうちょっと豪華な朝食を用意していてくれて、わたしはそれを食べ、ソファに寝転がって日曜朝のテレビを見て、そのままお昼ごはんも食べて、新喜劇を見て、家に帰る。母が仕事でいない火曜の夜も、夕ごはんを食べさせてもらって、テレビ見て21時頃帰る。日曜朝はいつしか無くなったが、火曜夜の夕ごはんは、母とわたしがそこから徒歩3分ほどのマンションに引っ越して父と別居してからも、わたしが一人暮らししてからも、結局、結婚して大阪を出るまでずっと続いていた。祖母は大正生まれだけど、若い孫に食べさせるのだと気負うのか、古風な「おばあちゃんの料理」というのではなく、割とモダンな料理をよく作ってくれた。肉で何かを巻いて焼いた料理が好きだった。時々かなりトガった不思議な料理が出てくることがあり、家に帰ってから母に今日のメニューを喋るのが楽しかった。本当にときどき、ちょっとつらい、てのが出てきたりもしたけど、基本的に味は美味しかった。本当にとてもがんばってくれていたと思う。同じマンションの2階と4階なので、母と時々お互いにおかずのお裾分けもしていて、祖母がよく作る切り干し大根のたいたんは、甘めの味付けでやわらかく炊かれており、正直あんまり好みではなかったのだけど、今思うとそれも懐かしい。ごはんのおともに出してくれる、白味噌にバターや生姜を入れて作る生姜味噌は、あまじょっぱくて大好きだった。何度か作り方を聞いたのだけど、白味噌を普段買わないということもあり、結局祖母とコミュニケーション取れる間に作ってみることはなかった。それを祖母がいなくなってから悔やむんだろうな、と当時思っていたが、その通りだ。また、白菜や細く切った大根浅漬けも定番だったが、それを食べるときお手塩に入れた醤油に味の素をしゃんしゃん振るのは子供心に衝撃だった。ごはんの最後は「昔は、お茶漬けするやつは出世できん、てよう言われたんやけどな。もう今更出世もないわな」と笑いながらご飯にお茶を注ぐのが定番だった。

祖母は60過ぎてからの中途失聴で、手話はできないが話すことはできる。なのでわたしの話は、祖母の読唇かホワイトボード。そんな複雑な話が出来る訳ではなかったが、長く続いた火曜の夕食の最後の方は特に、一緒にいて差し向かいで食事するこの時間の尊さを、黙って味わっているという感じがお互いにあったように思う。夏は食欲が落ちて痩せがちだったので、毎年この夏を越えられるかと心配だった。交通事故で痛めた足を少し引き摺りながら、台所とテーブルを行き来する小さな身体が思い出される。

わたしの結婚が決まったとき、結婚式に来てもらいたいと、わたしはとても強く思ったのだけど、それは叶わなかった。祖母が出席するとなると、わたしの父も呼ばないわけにはいかなくなる。結婚が決まった当時、両親は書類上はまだ婚姻関係にあったが、別居して10年ほど経過しており、母は式の席上で父と一緒になることを強固に嫌がった。呼ぶなら自分は出ない、とまで言われ、式が終わってから写真だけ見て貰った。その写真を見て祖母は喜んでくれたが、なぜその場に自分がいないのか、ということについては勿論、その場に居たかったなぁとか、良い式だったんだろうね、とか、そういうことすら一切言わなかった。ただニコニコ笑って良かったねぇと喜んでくれた。

父と母のことについて、祖母がなにか話すことは一度もなかった。わたしが高校三年生の冬、母は近くにマンションを買ってわたしと二人引っ越した。父は元いた部屋に一人暮らしするのではなく、祖母の家に住むことになったが、その経緯を彼らがなんと説明したのかは知らない。わたしも両親の間でどういう話し合いが持たれたのか知らない。母は姑である祖母に対しては、父に対するような嫌悪の情は持っておらず、別居してからも、母の日には花を贈り、ちょこちょこ何か手伝ったりしていた。スッパリ縁を切るならまだしも、この中途半端な状態を、祖母はどう理解していたのか。祖母は本当になにも言わなかった。わたしの結婚式の前に父と母は正式に離婚した。その何年か前に祖母の通院を手伝ったのを最後に、母と祖母の関わりも薄れていたようだが、祖母は時々、「○○さん(母)元気にしてる?」と顔を見たそうにしていた。それを母に伝えると母も、様子見に行こうかなァとか、あのお義母さんのことはわたし全然嫌とちゃうねん、尊敬してんねん、とか、前向きな発言をしていたが、結局会いに行くことはなかったようだ。祖母が自分の息子と元嫁のことを、というか本当に「元」になっていることを知っていたのかも解らないが、どう捉えてどう考えていたのかなぁとは時々思うが、それを実際当人に尋ねたりしなかったことに特に後悔はない。わたしはあの、眼前の交わりの外側にあるそれぞれの感情やものがたりを、明らかにしようとせずにお互いただ尊び、今ここで二人、長い影を落としながらもそれを受け入れて、穏やかな時間を一緒に過ごしていた、その行為の美しさを思う。10歳から29歳まで。奇跡のような時間だった。祖母はそんな人だった。

祖母が死んだのは三月の末のことだった。全国的にはもちろん、大阪は新型コロナの危険地帯だった。三月末の週末、旦那さんの通院で大阪に帰る予定があった。いつもの大阪行きなら金曜夜に大阪に向かって日曜帰るのだが、金曜に大阪に向かっている夜、大阪で外出自粛要請が出た。週末の食事は土曜も日曜も予約してあったのだが、キャンセルの連絡をして土曜日、旦那さんの病院が終わった後すぐに帰路についた。旦那さんは何度か、おばあちゃんに会いに行ったらどう、と言ってくれていたのだけど、当時すでに海外ではあるが、帰省して親に感染、というパターンが話題になっていたので、わたしは会いに行かなかったし連絡もしなかった。わたしの現住所は田舎で実家の方が都会なので、そのパターンに当てはまる訳ではないが、旦那さんが医療従事者である以上わたしもすでに感染している可能性は考えられる。土曜の夜家に帰って翌日、日曜の昼過ぎ、父親から電話があった。朝に祖母が亡くなったという電話だった。聞けば、1月末頃に誤嚥性肺炎をおこして入院していたらしい。あの時会いに行く気になっていれば、父に連絡してそのことを聞かされていただろう。ついでに言うと、三月の父の誕生日にちゃんとおめでとうの連絡をしていれば、入院しているというくらいの情報は得られただろう。三月は、あまりに新型コロナに精神のキャパシティを持って行かれていた。色んなことが疎かになっていた。自分から祖母に感染するリスク、自分が病院で感染するリスク、そこから旦那さんに感染するリスク、更に旦那さんの職場で集団感染が起こるリスクを考えると、どんな仮定をしても、この状況で病院に見舞いに行くことはしなかっただろうし、連絡していたとしても状況に変わりは無かっただろう。だから、この辺の自分の行動に関しては後悔はない。ただ、いまだ自分の周囲に感染者がいなくとも、このような形で新型コロナが自分の人生を犯したことに、息の詰まる思いがする。

葬儀も、薄氷を踏む思いで参列した。旦那さんも休みを取って一緒に帰阪してくれたが、本当の正しい行いとしては、わたしと子だけで帰る、というところだろうと思うし、説明さえすれば職業的にも誰も責めないだろう。あれから一ヶ月以上経過し、結果的に感染者が出なかったとはいえ、本当はどうすべきかを解っていても、それが出来ないことがあり、そういう無数のケースの上に、院内感染やクラスターの発生があるのだろうなと思う。あまり人付き合いがない人だったので、葬儀自体かなり小規模なものではあったが、医療職である旦那さんが職場で使うために買っていたN95マスクを付けて、普段付けているコンタクトレンズを眼鏡に変えて、旦那さんもN95マスクに花粉症用のゴーグル、という異様な出で立ちで葬儀に臨んだ。通夜後の会食でもウーロン茶に口を付けてそのまま帰り、焼き場から向かう精進落としの席も参加せず、一旦帰宅し実家で昼食を食べてまたお骨上げに戻った。なりふり構わずできる限りの対策は取った。どうせ普段付き合いの無い親戚だしどう思われても構わない。ただ本当に不安で不安で、ひとつひとつの挙動が破滅への一歩であるように感じて仕方なかった。ちょうどそのとき、国内のどこかの葬儀で集団感染が発生したという報道があった。のちのち、あの時のあの決断が全ての始まりだったな、と述懐する自分が何度も頭をよぎった。なにより、こんな気持ちを抱えながら最後のお別れをするということが悲しくて仕方なかった。もっと色んなことを思いたかった。マスクなんてしないで、おばあちゃんのことを人と話したかった。自分にとっておばあちゃんがどんな存在だったか。どんな時間を過ごしたか。それがどれだけ尊かったか。誰かに聞いて欲しかったし、誰かにとってのそんな話を聞きたかった。でも、無理だった。わたしの顔面はマスクと眼鏡が覆っており、わたしの脳内は、感染と、それによる社会からの糾弾への恐怖でいっぱいだった。

だから今、あの時お別れの場で、抱くことのできなかった思い、振り返れなかった時間を、こうやって書いている。悲しみを噛みしめることすらできなかった。喪失感すら上の空だった。こんなに沢山たいせつな時間を過ごしたのに。葬儀から帰って書き始め、二週間が過ぎて感染が発生しなければアップしようと、少しずつ書いていたら一ヶ月経った。こうやって書くことでやっと、おばあちゃんが死んだことをちゃんと考えられた気がする。一ヶ月かけて、わたしはおばあちゃんのお葬式をした。