妊娠

妊婦になって思ったことや考えたことを記録しておこうと思う。

それまで一人の独立した生物として生きてきたはずだったものが、妊婦となった途端、個人の嗜好や自由を引き剥がされ、人肉保育器となるのだ。ということを、妊娠してから4カ月ほど勤めていた職場と家を行き来する道すがら考えていた。田舎の道というのは都会と比べて本当になにもなくて、まだ田んぼや川や自然に近い田舎道ならまだそれらを眺めながら歩く楽しみがあるのだが、単に家々が並び車がぶんぶん通り歩道もろくにないただの道を歩くというのは外的刺激が少なく、ひたすら内向的に何かを考えるくらいしかやることがないのだ。
わたしは悪阻が全くといって良いほど無くて、多分めちゃくちゃ楽な妊娠初期だったと思う。ただ、自分の筋肉や骨やエネルギー、体力、そういうものが溶けて消えていく感覚はすごくあった。消えていくというか、腹の中で行われている大事業に徴発されていっているという感覚が。職場で日常的に使っていた階段が辛い。3階に上がるだけで息が切れる。普通に持てていた荷物が重い。歩くのだけは結構得意だったのに、少し歩いただけでしんどくなり、今まで自分とともにあった「歩くだけならどこまででも行ける」という感覚が完膚なきまでに崩壊した。これがまず、わたしの意思とは関係なく、わたしの身体がわたし以外のものに対して身を削りながら奉仕している、という、どこか裏切りを受けたような感覚の始まりだった。わたしの身体は今わたしのためのあるのではなく、腹の子のためにあるのだ。
また、何を食べてはいけない、飲んではいけない、或いは摂取しなければならない、また、これをしてはいけない、これをしなければいけない、妊婦になるととても沢山のことを色んな方面から言われる。インターネットの普及により常時情報は過多で、色んな人が色んな考え方やメソッドをとても気軽に披露する。また、医療や保健に関する技術の向上・研究の振興によって「正しいこと」は日々アップデートされ、更に発信される情報のバリエーションに拍車を掛ける。なのでそれらに律儀に目を通し情報の精度を検討し実行していくとなると本当にもう頭がパーンとなりそうなくらいしんどい。テーマが妊娠・子育てとなると、独りよがりな正義感に基づき自分の考えに与しない対象に対して、控えめに申し上げて大層排他的に罵りくさることで自分の正当性を高められると勘違いなさっている方が、他のテーマに比して印象として多いように見受けられ、それにも大層うんざりさせられた。妊娠も育児も、因と果が必ずしもはっきりと存在しない。その関係が明快に解るほど単純な物ではなく、様々な要因が絡み合い、果が生じるものではあるまいか。その絡み合いの中からひとつの因を抽出して検討することは非常に難しい。ただ妊娠・育児という事業の大規模さ、非理性的に生じる母性とかいうやつ、生命を生み出すという神秘性、それらのドラマティックさが、自分の経験の絶対化を生む。また自分の理解や経験の埒外のものをそのまま認識する能力を失わせ、色んなものを自分の都合よく解釈し、更に経験や認識の絶対化は強まっていく。いつの間にか「経験」は個人の中で「理論」という皮を被り、外部へ発信される。そういう状況から発せられる情報に何の価値があろうか。
ということを妊娠前からずっと感じていたので、わたしは触れる情報を積極的に制限することに、妊娠が解った際まず決めたのだった。具体的に言うと、自分を直接担当する医師・助産師・保健師たちの言うこと・彼らが配布する資料類、インターネットで何かを調べる際は、産科婦人科学会か大学ドメインのページのみを情報源とし、それ以外は一切見ないようにした。本や雑誌にしても、書籍化されているというだけで信用に値するとは到底思えないので、手に取りもしていない。別にそれらの基準に当てはまるから全て正しいとは思っていないが「わたしはそれらの情報を材料として総合的に検討しながら考え判断する」ということを一度決めてしまうと、それなりにストレスは減ったのではと思う。
しかしそれでも、今までの人生で無意識に蓄積してきた有象無象の言葉、考え、またSNSなどの日常的なインターネット閲覧、それらによって構築されたわたしを取り囲む仮想的な社会からの視線がわたしを萎縮させ苦しめる。なまじ結婚前は色々な情報に触れる仕事をし、それらについてひとつひとつ考えながら生きてきたと思うし、それは自分にとって大切なことだけど、わたしを苦しめる仮想社会の構築に寄与しているのは確かだろう。何かをすることによって生じるリスクが過大に感じられ、可能性が具現化した際に投げかけられるであろう社会からの冷たい視線、自己責任論、妊婦なのにどうしてそんなことも我慢できないのか、母親としての自覚が足りない、最近の妊婦は云々といった声、何をするにしてもそういう想像がバーッと頭の中に広がっていく。結果、何かがしたい、食べたい、飲みたい、個人的な欲望は全て悪となる。「妊婦として」何をすべきか、何を食べるべきか、何を飲むべきか。個人の意思とは関係なく、それらを最優先して考え行動する「完璧な妊婦」を求道することが自分の中で正しさへと化けていく。しかしそれは外圧(仮想的であれ)によって組み上げられた「正しさ」であり、わたしが求めたものではない。完全に実行できる訳もない。ただひたすらに息苦しさと、「正しいことができない」という罪悪感と、自分の中の過剰な妊婦像によって「わたし」という人格が自分から引き剥がされていく苦痛がある。
こうやってわたしは、肉体的にも精神的にも自分の人生というものを失い、腹の子と社会にかしずく保育器と化す。
どこかへ行く車の中で、旦那さんと代理母について話していたことがある。お金もらうとは言え全く他人の子を仕事として孕み出産できる代理母って凄いよな〜自分の子ですらもう二度と御免だわみたいな話から(お金が介在しない代理母も勿論存在するが)、もし自分なら幾ら貰うとそれができるか、みたいな話になって、逆にその金額を自分が代理母に支払うとしてその代理母にどういうことを要求するかというのを考えた。するとやはり、妊娠期間中はその代理母の生活を人権無視と言われるレベルで100%支配したいと思う。添加物や農薬など身体に悪い影響がある可能性のあるものは口にさせないようにし、肉や牛乳は元になる飼料にまで気を遣い、栄養管理も完璧に行い、適切に運動させ、それらの制限を破る恐れのある自由な外出や余暇は一切与えず、ひたすら胎児を育てるためだけの人体として管理したいだろう。そこまでしても、生まれてきた子に何らかの疾患や障がいがあったならば諦めもつくが、もし管理が甘かった場合にそうなったとしたら、その甘かった部分を責めずにおれようか。
ということを旦那さんに話していると、怖いな〜と言われたが、その怖さは実際自分に対して向いているものである。管理しきれない母体は自分自身であり、何かあった場合に責めるのも責められるのも自分自身であり、そう思うと母親にとって自分の体内で育まれ生まれ来る子というのは、妊娠期間中の、ひいてはそれ以前も含めた自分の人生の瑕疵が刻まれた通知書のようなものではないか。その通知書は父親のものにはなり得ないし、何らかの責任を父親は負わないだろうし、もちろん他の誰も負わないだろう。もちろん生まれてくる子の健康状態は100%母親の行動によってコントロールできる訳ではなく、運としか言いようがないことだって多い。もっと言うならそのコントロールに関して科学的根拠がある事象は極めて少ないため、冷静に考えたら母親を理論的に責めることができるケースはほとんど無いことは解っている。ただわたしはきっと、責任を感じるだろうし、自分の中の仮想社会はこぞってわたしを責めるだろう。
今まで長い間、わたしの身体はわたしだけのものだった。わたしの行動・食事、それに依る身体状態の変化に対してわたしだけが対応すれば良いだけの話だった。病気になれば、わたしが苦しむだけで済んだ。社会人として会社勤めをしていたら、まぁ迷惑を掛ける部分はあったが、そのとき感じる責任と、ひとつの命の土台を組み上げていく作業に対して自分が負う責任には雲泥の差がある、というか全く性質を異にしている。わたしは多分その重圧に耐えかねているし、その責任を認識しながらも「完璧な妊婦」になれないことに絶望している。妊娠という状態を幸福に感じたことは、正直に言って、一度もない。楽しみね、と声をかけられる度、そうですねと当たり障り無く答えながら、楽しみと素直に思える妊婦は一体どんな完璧な生活をしているのだろうかと思い、自分の至らなさに辛くなる。無私の境地に至り胎児の為に生きることを幸福と思える妊婦こそが「母親」になれるのならば、わたしは産んだ後いったい何になるのだろうか。
わたしにとって妊娠とは、自分の未熟さと身勝手さを十月十日にわたって突きつけられ続ける期間であった。そして恐ろしいことに、出産した後きっと、自分の未熟さと身勝手さを突きつけられ続ける育児期間が、妊娠の比じゃ無い長さで続くのである。