カボチャの種を剥きながら考えたこと

 外皮の白いきれいなカボチャをいただいた。カボチャと言えば、あの鬼のようにかたい皮と実を包丁が突き抜けたときのサックリとした手応え、割るとあらわれるてらいのない鮮やかな黄色。それが好きで、一人暮らしなのにどうもカットカボチャを買う気になれない。包丁を突き立てる、戦いのような気分も好きだ。ときどき硬さに負けそうにもなるが、まだ負けたことはない。今回も、なんとか戦いに勝利し、焼いたり蒸したりして食べていたのだけど、やわらかな黄色いわたにくるまれた種がまたとてもきれいなオフホワイトで、気まぐれに取り出してみたら、そのままなにかあらかじめ決められていたかのように、頭の中に浮かんだ深い黄緑色。パンプキンシードを作りを始めてしまったのだった。ボウルの中で種を泳がせぬめりを軽くとり、陽の光が入る床に新聞紙を広げ、水気を取ったたねをばらまいた。それがたしかいつかの夜、寝る前のこと。

 カボチャの種は一晩乾かした後、実家に持って帰ってフライパンで軽く炒った。そのままポリポリ食べても美味しかったのだけど、どうしても前の晩に思い浮かんだパンプキンシードの深い黄緑色が頭から離れなくて、種の殻を割る作業を始めてしまった。種は、わたしの人差し指の爪ほどの大きさで、割ると中には思い描いていた通りの濃厚なグリーン。カボチャの持つ色彩というのは、どうしてこんなにきれいなんだろう。台所に置いてある脚立に腰掛けて作業をする。最初は、炒ったときに割れたところから剥いて、割れていないものは爪を差し入れてこじ開けて。半分くらい終わったあたりで、そうだキッチンばさみを使おうと思い立ち、種の側面を割るようにハサミを入れて更に半分。端っこを細く切り落とした方が早いと気付いたのはもう残りわずかになってからだった。ひとつ分のカボチャから取れた種を全て剥くのに、2時間かかった。同時進行で黒豆をたいていたのだが、3時間かかるのか、退屈だなと思っていたのにカボチャの種剥き終えた頃には黒豆も良い具合に仕上がっていた。できあがったのは、カップで言うと30ccくらい。ほんのわずかなパンプキンシード。少しくすんだきれいなグリーン。

 多分、検索すればパンプキンシードの楽な作り方、むき方なんてすぐ出てくるのだろう。だけど、わたしはそれをしたくなかった。

 最近とみに思うのは、わたしはすべてを経験したいのだということ。人の失敗に学ぶのではなく、自分の失敗に学びたいのだということ。いろんなことに関して、楽な方法や効率の良い方法があるのは承知している。だけどわたしは、楽じゃない方法、非効率的な方法を通った後で、それらを知りたいし、できることなら人に与えられるのではなく自分で気付きたい。そうでないと、その楽・効率的なやり方の本当の価値すら、解らないのではないかと思うのだが、そうではないのだろうか。カボチャの種を2時間剥き続け、わたしは両手の親指の指先を完全に痛めた。爪と肉が離れて、特に右手の親指は何をしても痛いという状況が1週間ほど続いている。日に何度も痛さに呻いていた。ビールのプルトップも親指使って開けられない。だけどわたしは後悔していない。種をむき終わった頃母が帰ってきて、わたしもそれ昔やったことあるわ、二度としないと思ったわ、でもあんた、せんときてゆうてもしたかったらするやろ、と言って、ああ本当にその通りだなあと思った。誰かが人に「せんとき」と言うに至ったその道を、わたしも歩んでから「そうか、せんでよかったな」と思いたい。そこから得るものは、人がそこから得るものと同一ではないだろう。わたし自身がその道を歩まない限り、わたしがそれを得ることがないのだと思うと、大変勿体なく思う。先達の言葉は重く大切ではあるし、わたしはそれを真摯に聞くだろう。だけどそれを本当に自分のものとするには、同じ道を歩まねばならないのではないか。

 ここまでを要約すると、わたしは人の失敗や経験に学ぶことができないバカであるということだが、でもわたしはたぶん、色んな可能性を頭の中に展開させながら生きていて、ということは、そういう失敗や誤りを多分だけど、考慮に入れることはできているのではないかと思う。それがわたしにとっての「先達の言葉を真摯に聞く」ということだ。先を見越して先手を打つのはとても大切だと思う。それで守られるものがある、きっと。だけどわたしは、許されるならば回り道をしたい。落とし穴に落ちたいしそこから見える景色をこの目で見たい。そこから得るものを捨てたくはない。そして、回り道ができるほど、自分の心に生活に余裕があって、それを許してくれる人や環境があることが、わたしにとっての豊かな暮らしなのだろうと思う。

 カボチャの種を2時間剥き続けて学んだこと。蟹の殻を剥く労力と剥いて得られる利は釣り合っているが、カボチャの種を剥く労力とそこから得られるものはあまりにも釣り合わない。食べるなら剥かずに食べよう。剥かずに食べられるくらいしっかり炒ろう。ぱりぱりして美味しいので、洗って炒るくらいの労力には釣り合う。あとカボチャって、とてもきれい。