欲望

 たとえば、という書き出しが好きだ。何を何にたとえるのか定かでないまま、今日はなぜだか頭の中でずっと、たとえば、という出だしがうずまいていた。たとえば、の後は続かない。思考は一旦霧散して、そのあとまたどろりとした水底から気泡がうかびあがるように、たとえば、が浮かんでは胡乱にはじける。多分なにかを伝えたかったり、なにかを表現したかったり、そういうあてどない、中身もないぼんやりとした衝動が、たとえば、につながっているのだ、と思ったので、ひさしぶりに日記を書く。

 どう考えてみても、仕事というのが生きがいになり得なくて、それは多分いまの会社がどうとかいう問題ではなく、自分の本質的な問題で、なんのために生きているのかというと、それは自分のやりたいことを心置きなくやるためで、仕事というのは、その「心置きなく」という部分にしか意味をなさない。就職できなくて苦しかったころ、なにが苦しかったというと、どんな楽しそうなことをしても「心置きなく」という部分がなかったことだ。それは、内面的なものでもあったし、外的圧力でもあった。音楽を聴く、ライブに行く、美術館に行く、本を読む、そういった自分の娯楽全般について、気晴らしになるかと何をしてみても、こんなことしてる場合じゃないのに、と自分が自分を苛む。また母も、そんなことしてる場合じゃないでしょと悪態をつき苛む。あの頃は、どんなに楽しげな会話をしても、出口はそれだった。ような気がする。こんなことをしている場合じゃない、じゃあなにをする場合なのか、それは就活だ。だけども、就活という行為に向かって前進するには、希望が必要だったのだ。エネルギーとなり得る充足が必要だったのだ。そのどちらも無かった。無理だ、もう駄目だ、という言葉だけがぐるぐると頭を占めて、やるべきことを出来ず、かといってやるべきでないことも出来ず。自分で気持ちを上向きにさせるために楽しみにすがっても、それだけ必死にすがっても、なにもかも砂を食むようだった。色彩も味もなかった。そんな人生を生きる意味はないとその時思ったし、今でもそう思う。楽しむべきことをそうやって楽しめないという状況が、わたしにとっては地獄に等しいということを、そのとき知った。結局のところ、わたしはストイックにはなりきれなくて、努力とか、成長とか、そんなことは「心置きなく」の否応なしの手段でしかなく、目的にはなり得ない。「たのしい」「うれしい」「きもちいい」というそれだけが、その充足が、多分わたしの生きる理由なのだ。

うつくしいものを見、手を動かしてなにかをつくり、感覚と感性を研ぎ澄まし、今いる外界のすべてを自分の内なる世界と相対させて、その反応すべてを感じ取って、そして誰かに存在を肯定されて、そうやって生きていきたいと思う。それらの幸福を日々思いながら。

 いま、わたしがやりたいこと。
 何かをつくる。終わりのない刺繍。麻布でスカートを作る。糸を染めて布を織る。FIQ辺りで見繕ったうつくしい布で玄関のごみ置き場を隠すのれんを作る。うつくしい模様を模写する。あてどなく絵を描く。来年の年賀状をデザインする。コーンフレークの入った硬いクッキーを焼く。小松菜とリンゴとオリーブオイルでケーキを焼く。玉葱とパプリカとベーコンでキッシュを焼く。ケークサレでもいい。果物を煮る。煮林檎がいいな。シナモンを効かせて。トーストに乗せて食べよう。羊にさわる。馬に乗る。外乗がしたい。牛の湿った鼻をさわる。澄んだ川で泳ぐ。岩をひっくり返して慌てて逃げ出す虫を見る。ペットボトルの罠を仕掛けて翌朝魚かかってるか見に行く。磯を歩く。延々と。気まぐれに泳ぐ。濃密な生命の気配を感じながら波に身を任せてぼんやりと漂う。海綿や、カメノテや、イソギンチャクや、そういった無脊椎動物の造形のうつくしさを堪能する。海岸を歩いてシーグラスやイソギンチャクの殻やカシパンの殻や貝殻を拾う。山を歩く。湿った土を踏む。文字を書く。もう始めてから1年以上になるレイ・ブラッドベリの「塵よりよみがえり」の文庫版と原書の書き写し。読んだ本で印象深かった部分を写真撮って残してあるのだけど、それを打ち込んで公開制限つきのblogにする。ソファに寝転がってゆったりとレコードを聴く。宇宙船レッド・ドワーフ号のDVDをいちから見る。字幕と吹き替え交互に。空堀商店街を散歩する。古本屋に行く。大阪城公園を日本三文オペラ的遺物を求め徘徊する。24時までやっているというサンサリテに夜も更けてからパン買いに散歩する。静岡行って芹沢硑介美術館の休憩スペースで心置きなくぼんやりする。駿府城の公園を散歩してレコード屋でなにか中古レコード見繕ってキルフェボンでタルト食べる。掛川花鳥園エミューに追いかけられながら餌やる。手を噛まれながらアヒルに餌やる。そんで資生堂アートハウスまで歩いて今度こそちゃんと展示見よう。ああとにかく静岡に行きたいな。あそこはとても落ち着く。あとどこ行きたいかな。高知の藁工ミュージアム。滋賀のMIHO MUSEUM。千葉の川村記念美術館。埼玉の河鍋暁斎美術館。東京の森美術館。野田のビッグビーンズ。淀川の湾処。大正区を自転車で走って千島の渡し船で対岸に渡る。渡らなくてもそのまま河口へ下ってもいい。あのあたりの景色すごく好きだ。写真に撮りたい。とても。川の写真をたくさん撮りたい。誰かと夜の公園で静かにビールを飲む。夜も遅ければ遅いほど良い。真夜中の真っ直ぐな道路の真ん中で、心細さとあてどない不安をもてあそぶ。点滅を繰り返す信号機に心をぞわぞわさせる。べろんべろんになるまで飲んで死んだようにねむる。不健全な眠り方をした翌朝の、重力が何倍にもなったような身体の重さを感じたい。

 そういった、なんてことのない欲望が、わたしを生かしている。